NOMI08

 「完全独占中継・藤原紀香・陣内智則 愛と爆笑と涙の結婚披露宴!」(日本テレビ/2007年5月30日放送)。何はともあれご両家慶事の極み、所々、要所要所拝見。
moody 披露宴の顔ぶれといい、会場の雰囲気といい、圧倒的に新婦色を中心に構成された(ように思う)なかで、新郎側の来賓…つまりは吉本興業お笑い担当では、唯一というよりむしろ、随一の存在感を放ったのがムーディ勝山。右から右から何かが通る〜…で、左に受け流す。2番では陣内・紀香の婚姻届までも左に受け流した(笑)。

 昨年暮の陣内さん司会、「オールザッツ漫才」(毎日放送/2006年12月29日放送)の企画コーナーでは、披露宴の予行演習を兼ねてムーディ歌謡を披露。所詮は披露宴のパロディコントでしか無かったのですが、その半年後の本番で、まさかのフルコーラスの見せ場を演じて見せようとは…。しかも、「19時に始まって21時半に終わる披露宴の歌」(笑)まで熱唱で画面を独占しきった(笑)。その際、チラッと来賓のテーブル、中村玉緒さんの姿が映り、ムーディ歌謡に何が何やら分からない表情。しかしその隣からピーコさんが一生懸命、“事態”を説明してる様子も可笑しかった。

 新郎側のムーディに対し、新婦側は郷ひろみ「お嫁サンバ」、こちらもやはりスゴかった。その「お嫁サンバ」の段、カメラはチラリと、獅子舞を舞うたむらけんじさんの姿も見られ、おお、これは神戸カーニバルのサンバチームと共に何やら見せ場になるかと期待していたのですが、晴れのその姿は画面に一瞬…。

 披露宴お開き後に、

「実はあのとき、警備員に(ふんどしを握られながら)そのまま連れ出されそうになったんです」

 と、たむけん氏。折角の同期、晴れの見せ場は幻となり勿体無い…(笑)。

 ともあれ、昨夜の来賓MVP。個人的には圧倒的にムーディ勝山、ぶっちぎり。新郎もその舞台度胸に思わず感服でお見事(笑)。
tsurube03 今秋、落語「らくだ」を引っ提げて全国各地に落語ツアーの笑福亭鶴瓶師。鶴瓶師の落語ツアーというのも数年前まではまさか、まさかで、しかも今回のように「らくだ」という大ネタをメインに各地を巡るといった、演目が冠となった落語会、その発想自体も前代未聞では。

 それだけ、師匠であった六代目笑福亭松鶴師の「らくだ」が強烈で、落語家としても羨望の、やっぱり大きな演目だった…ということでしょう。関西は京都・南座と、大阪・松竹座
 スゴイことになりそう・・・。
 出演・愛川欽也〜明治座2001年7月公演「花は紅、染千代一座」(愛川欽也・脚本、石井ふく子・演出、東京・浜町〜明治座/2001年7月2〜27日)、稽古場にて収録。

 愛川 こんにちは、「やもめのジョナサン」こと愛川欽也です。
     「トラック野郎」がどういう風に出来たかと、
     告白すると、「トラック野郎」というこのシリーズ…
     いや、後になってシリーズにはなったんですけど、
     この映画をやろうと言い出したのは、僕です。

     それは何故かって言いますとね、
     この「トラック〜」を遡ることン十年前、
     私、声優として凄く、売れてたんです(笑)

     特にジャック・レモンの吹き替えは物凄く
     気に入ってましてね。その当時、海外TVシリーズで
     「ルート66」っていうのをフジテレビ
     やったんです。だけどその作品は、
     “青年”の物語なんです。だけどこっちは、
     青年通り越して、中年になっちゃいましたんでね(笑)
     なんか映画やりたいなぁ、「ルート〜」みたいな
     映画やりたいなぁって年中思っていた、矢先に、

     NHKの、情報番組というか要するに
     レポート番組か何かで、
     『近頃面白い車が幹線道路を走ってる』と…
     まだ、東名高速が出来たてのころ(の放送)です。
     その番組を何の気なく、家のテレビで見てたんです。

     するとキンキラキンの、まさにあのトラックです。
     走ってるんです。何台もじゃないですよ、
     一台か二台。
     それでも「おもしれぇなぁ」と家で見てたら、

     「そうだ、コレだ!」

     つまりさっき言った「ルート66」は、
     大学を卒業したばかりに青年の物語だけど、
     中年のおとっつぁんが二人して、スポーツカーで
     日本中を…って、そりゃあヘンだよ(笑)
     だから「あっ!」…
     コレで「トラックの運ちゃんだ」と思ったんですよ。

     とにかく、二人の主人公がトラックに乗って
     日本中を旅する話だから、
     「トラック野郎」っていうタイトルはそこで付いて、

     片っ方はどうしようもない独身で、女好き。
     それが伝説的になって「桃太郎」…の一つ手前で
     (役名を)「桃次郎」っていうのが出来て、
     じゃ、オレの方はどうしようかと考えた時に、
     「金に憧れてるのに、金もないヤツ」っていうのを
     創造しよう…名前も松下幸之助さんにあやかって
     「松下キンゾウ」。キンは「金」ね。
     オレは金が欠乏してますけど(欽也)、それで
     「松下金造」っていう役名が出来て。
     で、当時ちょうどね、
     「かもめのジョナサン」っていう
     小説(リチャード・バック 著)が世界的に
     流行った。それをパクろう!…で、

     「やもめのジョナサン」(笑)

     考え方がトントントントン進むのが分かるでしょ?
     これ、今しゃべってる調子(約3分少々)
     出来たんです(笑)。

     まぁしかし、撮影に入ったものの、最初の
     1作目の(予算)が無かったこと!

     僕の乗ってた4トントラックなんか、
     中古車センターに捨ててあるようなヤツ
     買ってきたもんだからね、雨の日なんか
     屋根から漏るんだもんね。
     そりゃヒドイものでしたよ!

     僕にとっても、自分のなかで良い映画シリーズを
     演らせてもらったなって、いつも思ってます。

     どうぞ皆さんもね、ご覧になった方もね
     もう一回見てもねまた見て下さい。

     どこ(のシーン)から見ても、
     面白いように出来てますから
     「トラック野郎」シリーズ、是非ご覧下さい!


 と、以上は東映チャンネル「トラック野郎(夏篇)特集」の、作品と作品のインターバルに放送された、貴重なミニ番組から。それにしても、キンキンのおしゃべりは、相変わらず早過ぎるも、要領の良さだけは天下一品(笑)。声優で俳優で、さすがラジオの名手のジョナサン、まさに「なるほど!ザ・トラック野郎」。

 ♪あああ〜、あ〜あ〜…一番星空から〜。
 
 また見返したくなりました。特集されたお盆公開シリーズ、あとの2本もどこかに録画してあったはず。

 お正月公開を含めた全10作…全部見返したい!

 度胸一番星!

 よぉ〜っし!一世一代のスピード違反だ!!

 警視総監に言っとけ!、

 「パクれるもんならパクってみろ」ってな!

トラック野郎 御意見無用 トラック野郎 御意見無用
菅原文太 (2002/07/21)
東映
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 こんなの録画しとってんな、というビデオが一本。菅原文太・主演、愛川欽也・助演の「トラック野郎」シリーズの、しかも3作品。以前にスカパー東映チャンネルに加入してた時が短期間あって、東映映画、例の岩場の波しぶきのオープニングの前に、「東映チャンネル」と冠されていたので、その折に録画していたもの。シリーズ3作品の合間にある告知CMもベタに録れているので、ダラダラと録画していたものを思われますが、全然記憶に、無い。東映チャンネルは当時、加入セット外ということもあり、また月額も頭抜けて高かったので、ほんの数ヶ月加入しただけ。加入したキッカケはやはり東映映画の「ヤングおー!おー!日本のジョーシキです!!」(1973年)を録画したいがための加入でもあったわけですが、それにしてもその数ヶ月、思いもよらない数多くの東映作品、録画に視聴…その数は闇雲(笑)。しかし、それらのテープが今どこを見渡しても見つからず、結局、山奥に埋もれたままに…。

 そんな一本として「トラック野郎」シリーズ。東映チャンネルの企画としては「トラック〜」夏編という括りで、お盆公開作の5本立てが一挙に放送された模様。そのなかでテープに録画、あったのは、

第1作「トラック野郎・御意見無用」(東映東京/1975年)

第3作「トラック野郎・望郷一番星」(東映東京/1976年)

第5作「トラック野郎・度胸一番星」(東映東京/1977年)

 明け方の3時ぐらいに探し物をと押入れをゴソゴソしていたら見つかった一本。手書きのラベルで「トラック〜」とあったので思わず再生したら最後…結局、そのまま3本を一挙に見まくって、朦朧とした朝を迎えて、今日一日ボーッ…(若干の休憩を挟みつつ午前8時終映 笑)。

 1作目。ライバル松竹のドル箱「男はつらいよ」を多少意識しながらも、後のパターンとなるライバルのトラック野郎が佐藤允(和製チャールズ・ブロンソンと言われた、『男だよ、山ちゃん!』)ということもあり、いわゆる東映色は抑え目というか、割と正統派喜劇路線。なので、主演の文太兄ィよりも、助演のキンキン(子だくさん…実生活とは全く非なる)、「やもめのジョナサン」のペーソスが光ります。

 3作目。まさかシリーズ化などは思いも依らなかった、しかしながら1作目のヒットを受けて早くも絶好調な見せ場もたっぷり。ライバルに梅宮辰夫(北海のカムチャッカ)登場で東映色も満点。辰兄ィに思いを寄せるのは向こう意気も満点の土田早苗。島田陽子扮する今作のマドンナ、北海の牧場に働く馬主の娘に恋したがために桃次郎、初の乗馬体験。このときの馬が牝馬で、馬自身が初めて人を乗せたがために大騒ぎ。その様子をそばから見ていたキンキン、牝馬と桃次郎の“格闘”を、「処女に襲いかかる野獣」に見たてて講談調に茶化しながら、ドライブウェイ(この店員役に海原千里・万里)に集うトラック野郎に披露し、大ウケ。そこへふらり訪れた辰兄ィ、その格闘の様子を、愛する土田早苗と野獣・桃次郎の、何やら乱行と勘違いして良からぬ妄想を。鼻は膨らむわ、当然怒りは込み上げるわで、最後は桃次郎と大乱闘に…。
 それにしても、辰兄ィカムチャッカに、喜劇映画ではよくある勘違いの場面にしても、その妄想ぶりを鈴木則文監督、見事に映像化。 欲望のままに土田早苗に襲いかかる文太兄ィ、これは良しとしても、キンキンの講談に合わせて、ムチでシバキあげるドS文太兄ィと背中越しの、しかも無数の「ミミズ腫れ」を描きながら恍惚の表情を浮かべる、土田早苗のいかがわしきコントラストたるや…(笑)。

 白バイ蹴散らし走行シーンに乱闘シーン、失恋、下ネタギャグとお馴染みの場面数あれど、この妄想シーンだけは今作、屈指(笑)。

yashiro 5作目。マドンナ、片平なぎさの水着シーンにトラック野郎のアイドル、八代亜紀扮する女トラッカー・紅弁天。ライバル役には「仁義なき戦い」大友勝利よろしくハイテンションでは負けない北陸のジョーズ・千葉真一とこれだけでもワクワクの逸品。

 トラック野郎の必須アイテムでもある無線によって野郎同士に生まれる連帯感。無線の話題、中心にあるのは野郎たちの「故郷」や、またそこにいる家族のことで、この様子を苦虫噛み潰しながら傍受していたのが千葉ちゃんジョーズ。屈折した形で電波妨害、大暴れと相成る具合。しかし千葉ちゃんや、彼が率いるジョーズ軍団には、その屈折にも理由があって、彼らの愛した「故郷」は、高度経済ニッポンの乱開発、ダムの下に沈んだり、懐かしい風景が諸とも消え去って。そんななかでの野郎同士のやり取りはジョーズ軍団にとって、「ぬるま湯」臭くて仕方なかった、というのが今作のライバル、キャラクター立てに。

 また、マドンナ・片平なぎさも、「二十四の瞳」さながら生徒四人の「八つの瞳」、佐渡島の分校に赴任した女教師で、桃次郎「ぼ、ボクは運輸省関係を少々…」(笑)。片平なぎさの祖父は佐渡の砂金取りとして底辺ギリギリながらも慎ましやかに生活を。そんな祖父曰く、「実は(片平なぎさが)捨て子で、思うに、あの子はまるで金山の土に埋もれた金のようにワシに授けてくれた子かも知れん」。
 故郷亡きマドンナも、祖父との生活を重ね、教師となった今に思う、「故郷は遠きにありて思うもの」。運輸省関係の桃次郎も調子よく文部省関係へと鞍替えしながら、別のシーンで紅弁天に、

「ねぇ、桃さんの故郷はどこなの?」と尋ねられると桃次郎、

「オレの故郷はなぁ…」で、次のシーンに一転、

「故郷は遠くにありて思うもの、近くにありて匂うもの!」といつもの特殊浴場…トルコ嬢の腰元に顔を近付ける桃次郎(最高!)。そこへ馴染みの他のトルコ嬢がやってきて、能天気に「桃さん、新潟のお土産は〜?」

 「あるよ、あるよ!」とご満悦に指差したのは俵に積まれた「コシヒカリ」。なるほど、腰も光るハズ(笑)。前後にも、細かいくすぐりが入ったかと思うと、別のシーンでは大凧にぶら下がり大空を舞ったり、憧れのマドンナのことを考えながら埠頭では、ぼんやりとぼんやりと一歩一歩足を進めると、そこは宙に浮いた海の上。ジョナサンに、「桃さん!」と声かけられた瞬間、我に戻ってドボ〜ン!。
 スペクタクルに奇想天外なギャグがいっぱい。また、由利徹南利明玉川良一、そして当時人気の松鶴家千とせ、それに婦人警官役で追走のあき竹城が、たまの拍子でオッパイポロリ(笑)など、達者な喜劇陣の顔ぶれが多数織り交ざって、サービス満点。

 3作目のサブタイトルに「望郷一番星」とはあったものの、5作目の今作こそ、テーマは「故郷」。誰にしてもある、しかもそれぞれに時代とともに変わり行く風景のなか、また人生を重ねながら、かつての故郷こそ失いながらも、新たな「こころの故郷」が生まれて、今がある。「トラック野郎」一番星とジョナサン初め、それぞれが各地で結んだ人々との出会いに別れ。その一つずつが「故郷」なのだと。

 お馴染みの国家権力VS桃次郎、ラストの一大デッドヒート。さまざまな故郷に人生を背負った、トラック野郎軍団による桃次郎応援大連携網は圧巻です。

 ライバル「寅さん」に負けずとも劣らない人情喜劇、東映風味で大展開。折角のマドンナも物語の途中、不慮の事故で亡くなってしまう(松竹大船『寅さん』では考えられない!)。そんな別れを背負いながらも、お盆作品、男の汗が画面いっぱい漲るなかで今日も爆走、トラック野郎。
 もうコレだけでお腹いっぱいの、笑いと涙で目がギンギン…。

 おかげで一日、昼間ボーッとしながら、ようやく今の時点で目も冴えてふとテレビを点けたら「痛快!明石家電視台」(毎日放送)、偶然にもゲストに島田陽子さん…3作目のマドンナ!
 牧場のシーン、ボトボトと糞を垂らす馬をして「まぁ、やっとお通じがよくなったのね」とニッコリ(笑)の同作品が上映、間もなく映画「SHOGUN」にて、元祖国際派女優へと相成られた島田さん。

 国際派な話題は出ても、「〜望郷一番星」の話題、出演コーナーの『なにをきくねん』…何も訊かれていなかったのが、ちょっと寂しかった・・・(確かに今さら、馬糞のシーンを尋ねられてもね 笑)。

 こんな具合で今日一日、何やら、トラック野郎に始まって、トラック野郎で暮れたかのような、趣。
 「さてはトコトン菊水丸」(MBSラジオ/2007年5月25日放送)『トコトン生ゲスト』は、足ツボ健康法で話題の漫才師「ケツカッチン」和泉修さん。
syu 木曜日は「さてトコ」の真裏で「ラジオよしもとむっちゃ元気!」(ラジオ大阪/毎週月〜金曜朝9時00分〜12時00分)のレギュラーとして出演中の修さん。一日開けたら、昨日の敵は今日の友。

 茶屋町に弁天町から刺客到来と、プロレスのポスター風に煽ってみましたが。

 番組では、プロレスよろしく足ツボマッサージの『修吉棒』攻撃に、まず挑んだのが石田雄一さん。酒豪の党首、ツボに刺激で激痛にあえぐかと思いきや、予想に反してのいたって普通にどこ吹く風。すこぶる健康体であった模様。続くタッチを受けてリングに上るは、河内家菊水丸師。グリグリと、ツボにめり込む攻撃に…うぉ〜、ああ〜、ギャ〜!。苦痛に歪み、挙句、食生活の修正を促されて3カウント、ダウン。あわや流血の(?)足ツボ攻撃に、流血ならぬ逆に血流が良くなって、番組終了間際には心地良い睡魔にも襲われ、まさに撃沈されてしまうのでした。

 この勝負、ひとまず弁天町に一本も、本当の意味での決戦は来る6月中旬、スペシャルウィークにて。
 茶屋町陣営の仕掛け、大いに期待です。
 「さてはトコトン菊水丸」(MBSラジオ/毎週月〜金曜朝10時30分〜12時30分放送)、落書き222本、ご笑納22本目の2並び記念で2本立て。
ayame 1本目は金曜版『トコトン生ゲスト』(2007年5月11日放送)ご来場、落語家生活こちらは25周年の、桂あやめ師匠。
 番組のなかでは、あやめ師が五代目桂文枝(当時・三代目桂小文枝)師に入門した当時のエピソードを中心に。
 入門間も無いころ、文枝師が当時レギュラー出演していた「素人名人会」(毎日放送)のお正月特番。新年用にとせっかく新調した着物をうっかり持ち忘れる始末の新弟子、当時・桂花枝のあやめ師。今のように携帯電話のない時代に、何とか文枝師の奥さんと連絡が付き、ようやく衣裳が用意出来たものの、用意されたのは、その前の年に新調した着物。「〜名人会」、司会の西川きよし師初め、他のレギュラー審査員の皆さんが堂々と新調の着物で居並ぶなかで、文枝師の忸怩たる思いや…。その後、女弟子ながら唯一手をあげて怒られたのは言うまでもなく、その現場には、何と河内家菊水丸師が偶然に出くわして。さすが、新聞詠み家元、現場主義。事件のある場所に姿あり(笑)。

 そんなエピソードのほか、文枝師が当時お住まいの大阪は玉出。周辺にはお弟子さんらを含む当時若手の落語家さんも多数お住まい。そのほかにミュージシャンの方もチラホラとお住まいだったようで色々と交遊もあったとか。なかでも近所にあった行き付けの喫茶店には、西岡恭蔵さんに大塚まさじさんなどといった、関西のフォークシーン、ニューミュージックシーンを彩ったアーティストが集う環境にあって、ある日の文枝師、そんな店内の彼らの姿を眺めながら、

 「(喫茶店にいる)あの兄ちゃんら、食えてんのかいな」
と気を揉んで。あやめ師によると文枝師が指す「あの兄ちゃんら」とは、何と憂歌団のメンバー!。
 師匠、そんなもんエラ売れですがな!(笑)。

 そんな文枝師、何と独演会では、落語のハメもの、三味線替わりに「頼むわ」と呼び寄せたのが、やはり喫茶店の常連であった、あの石田長生さん!。どんな高座や。物凄いコラボレーション!。音源は残ってないものか、聴きたい聴きたい!!。

 名人とは、常に挑戦的でまた少しの「浮世離れ」といった部分も必要なのかもしれません(笑)。
 
 ご笑納落書きショウは、25周年記念のあやめ女王様のクモの糸にかかった、和歌山県出身、「玉双津」関(?)。ふんどしまで脱がされて…いや、自ら脱ぎ捨てて、タァ〜ッ!。
 プライベートでは大体こんな感じらしい…とは番組での菊水丸師、石田先生の弁、アハハ!(笑)。

futaba 2本目は芸能生活25周年の約3倍!、今年で73年目の金曜版『おたまじゃくし音楽堂』(2007年5月25日放送)ご来場、歌謡浪曲の大御所、二葉百合子師匠。

 1972(昭和47)年レコーディングから4年を掛けたロングランヒットの「岸壁の母」。ピンクレディー花の中三トリオ新御三家など当時のアイドル、人気者に並んで歌謡番組に多数出演の既に大御所。歌謡番組では楽曲そのままやテレビサイズにアレンジされるも、さすがは二葉師、しっかりと浪曲用の長講にも作品をアレンジ。当時はテレビなどでもよく披露されたようです。

 歌謡曲を手掛ける前には浪曲師としての実績も充分。寿々木米若二代目広澤虎造といった浪曲界昭和の大名人とも同じ舞台を踏んでいて、特に虎造師の交際範囲の広さと浪曲のみならず映画界にも進出したフットワークの軽さを証言。また、関西の大スター、初代京山幸枝若師との競演話にも及び、片やケレン味たっぷりに爆笑さえも呼び起こす一席を務めたかと思えば、お次に登場の二葉師も負けじと人情味たっぷりに今度は客席の涙を誘い…。東西まさに名人戦、芸の火花散る高座をやはり現場主義者、菊水丸師は客席より目撃していたそうで、流石。

 もっとお話を伺いたいと思いながら番組でかかった音源も貴重で、もっともカッチョイイなと思ったのは「寺内タケシとブルージーンズ」との競演『エレキ津軽じょんがら』。浪曲とエレキのこちらも異種格闘技戦で、二葉師の唸りも然る事ながら、バンド演奏に加え、寺内氏の間合い良い合いの手も名人級。ギターといえば名手、我らが石田雄一党首も思わず脱帽、さすが母乳党も脱脂粉乳党(“脱”だけ合わせてみました)へと鞍替えな様相?。
 とにかく、良い音源を聴かせていただきました。

 というわけで今回のご笑納は、滅多に観られないテーブル掛けの浪曲師としてのお姿をば。曲師には本来なら、二葉師の名相方曲師・木村八重子師となるべきところ、残念ながら資料がなく、その分、お弟子さんである「玉川カルテット」の、二葉しげる師を配して。「♪金もいらなきゃ女もいらぬ、私ゃもう少し背が欲しい〜!」のアノ師匠。芸道一筋70年、記念の師弟共演でお祝いの、「関東一本〆」『お手を拝借、ヨォ〜!』な趣。この「関東〜」、めでたく威勢の良い好きな歌。今回は、そのリクエストを添えてご笑納差し上げた次第。かかって良かった。

 お弟子さんといえば、浪曲以外にも歌謡界、演歌界にも多く二葉師に師事される方々が。そのなかの一人、藤あや子さんが当日の、その前の番組、「ありがとう浜村淳です」(MBSラジオ)にゲスト出演されていて、今は「蝶々夫人」をテーマにした歌謡浪曲を手掛けていますとお話されていたところ。もちろん、師匠の二葉師についてもあれこれ語っておられたのですが、にも関わらず「実はこのあとの番組で〜」や、「さてトコ」のなかでも「先ほどはお弟子さんの藤さんが…」といった話題が一切無く、折角の2番組連続の粋なキャスティングも非常に勿体無いなぁ…と。そんな「さてトコ」、来週の『おたまじゃくし〜』はその藤あや子さんがご出演。

 生でご来場か、それとも、録音か〜?と、一人勝手に気を揉みながら(笑)今回の、各界女流の芸道一筋2本立てお開きに。

 お手を拝借、ヨォ〜てポンと、打ちましょう〜!チョ〜ンチョン!…と大阪〆めも加えて、桂あやめ師、二葉百合子師のますますのご活躍を、お祈り申し上げます。
reo 「旧なんば花月めくり」、第8弾はコントレオナルドレオナルド熊石倉三郎のご両人。コンビとしてもっとも売れた形がこのご両人で、石倉さんの前は熊さん、ブッチー武者という方とコンビで「コントレオナルド」。ブッチーさんというのは、後に「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)『さんげの神様』として人気を得た方。なかなかキレるツッコミだったのを辛うじて、記憶しています。

 その後、石倉さんとコンビになって、チーム名も確か「ラッキーパンチ」といったと思うのですが、当時はポール牧関武志コンビの「ラッキー7」がまだまだ人気だったので、ややこしいなぁと思っていたら、ほどなく「コントレオナルド」に変更。「花王名人劇場」(関西テレビ)には両方のチーム名を名乗って出演されたと思います。

 それにしても、アクの強いというか、見た目が何とも関東コントチームの王道スタイル(笑)。しかも、結構、熊さんが理屈っぽいボケというか、割と時事ネタ風刺ネタを挟んでいたので、関西の、しかも花月の舞台でそのウケ具合は…?。それでもコンビでなんば花月から中継、当時の人気コメディ「あっちこっち丁稚」(朝日放送)へのゲスト出演や、吉本新喜劇自体でも、熊さん座長の特別公演が組まれたと記憶するので、概ね好評を持って受け入れられたのでしょう。

 にも関わらず、何時の間にかそれぞれ単独活動、そして解散へ…といった印象。今となっては懐かしの、こういう時事ネタがあって風刺があって、トボけた味わいで、関東風味のアクの強さ…。大人になった今、もう一度観てみたい気がします。
 こんな方も旧なんば花月、出演されていたのか…というめくり、一品。

osome 海老一染之助・染太郎師といえば、言わずと知れた例のおめでたい太神楽、芸と顔を引っさげて、特に毎年元日恒例の演芸番組、「初詣爆笑ヒットパレード」(フジテレビ)では、1968(昭和43)年の第1回以来、染太郎師が亡くなってからも、染之助師が単独で今年放送の第40回まで連続フル出演。まさにお正月の顔でございます。

 いつの間にか「お染ブラザーズ」という呼ばれ方をして、一時期の売れ方は凄まじいものでした。ある年の正月は、「〜爆笑ヒットパレード」を皮切りに連日連夜、しかも生番組を立て続けに出演。テレビを見ていたら、たまたまウチの母親が「よう出てるなぁ。着物の襟元かて汚れてるがな」(我が母ながら、細かい! 笑)

 今のようなハイビジョンでもないのに、それでも分かる例のオレンジの着物、その汚れ。それは着替える間もないほどの多忙であった証拠。まさに芸同様のドキドキハラハラ綱渡り。もしかして、包丁を使った芸などで失敗しないものかとこちらの心配をよそに、さすがはプロの名人芸。滞り無くハードスケジュールを乗りきったのでした。

 「染之助は肉体労働、染太郎は頭脳労働。これでギャラおんなじなのよ〜!」と染之助師がボヤく、お馴染みのフレーズ。お兄さんの染太郎師は本当に芸が出来ないのだろうかと訝しげに眺めていたら、旧なんば花月から、新設移転したNGK「なんばグランド花月」で観た高座、「花王名人劇場」(関西テレビ)の公開収録…。

 「今日は染太郎に芸をやらせます!」

 どよめく客席、「大丈夫かいな?」。当の染太郎師も突然の指名にオロオロしながら、いつもの傘や包丁を使った芸を披露。途中おぼつかないところもあってその心配をより一層も、最後まで何なく演り遂げて、司会の横山ノック師に西川きよし師、

 「お兄さんもやったら出来まんねや!」(笑)。

 今となっては大変珍しい、ホンマ、やったら出来るステージを観せていただきました。
sabushiro 「旧なんば花月めくり」シリーズ第6弾は、太平サブロー・シロ―のご両人。
 今はコンビ解散し、その後の活躍をご存知の通り。しかしコンビ時代の、特に昭和60年前後のサブシロ漫才はスゴかった。例え、当時の漫才王者が「横山やすし・西川きよし」だと言われても、また「オール阪神・巨人」が「やすきよ後継の旗手」として、さらなるしゃべくり漫才に磨きをかけはじめたとはいえ、当時のサブシロ…何十分聴いても飽きない漫才でした。その理由は、掛け合いも妙味なら、得意の物真似が随所に炸裂し、なおかつ、シロー師がこれでもかこれでもかとボケ倒すだけボケ倒し、それにしがみ付くようにサブロー師の柔軟混ざったツッコミが冴え渡って。一度だけ「うめだ花月」で40分以上のステージを堪能し、サブシロ漫才で笑い死にしそうになったのを思い出します。

 当時のサブシロ漫才、後に「ほとんどがアドリブの羅列」というのを訊いて合点。確かに、好き放題にネタを出入りするシロー師に、サブロー師必死に流れを元に戻しながらと苦労が耐えなかったのだそうで、それでも必死や苦労が見えなかったのは、何もこちらが子供だったからというわけでもなく、それを含めたとしても、サブロー師もシロー師のアドリブに乗って一緒に遊び倒してと、ステージはサブシロ空気が蔓延した、寄席のなかではもはや独壇場とも呼べる雰囲気がこちらに伝わって来たから…だと今になって思います。

 「ボケ」「ツッコミ」という当時としては幕内であった言葉も今や日常化してしまいましたが、最初にこの言葉を含めた楽屋の空気を、舞台から伝えたのはサブシロのご両人だったと思います。漫才のなかにも、ポロリと「お前、今日はボケ過ぎやがな」、「人がボケてんのに、知らん顔すな!」のようなアドリブが飛び出したのは、恐らくサブシロ漫才からで、それまでテレビのお笑いを見て真似はしてみたものの、「ボケ・ツッコミ」という根本的な概念に目覚めさせてくれたのは、サブシロ漫才だった…と、至極個人史な記憶から。その後になって、ダウンタウンあたりが「スベる」や「サブい」という言葉を多用し、さらに深い『日常の楽屋化』へと一般ファンを誘っていくのでした。

 楽屋化といえば、漫才のみならず、テレビやラジオ番組で、我々の知らない幕内のスタッフの噂話を世間に広めたのもサブシロ。これは後に「とんねるず」「オールナイトニッポン」などで多用していくのですが、サブシロの場合は、放送界、演芸界、しかも関西のごくごく小さな、我々から見ればまさに「異世界」。物真似を駆使しながら、それは吉本興業のマネジャー氏であったり、放送局のプロデューサーであったり、果ては局常駐のガードマンさんであったりと細かい描写。その雰囲気が小さければ小さいほど、マニアックであればマニアックであるほど、まるでこちらも楽屋に連れて行かれたような錯覚に。サブシロのご両人のおかげで、マネジャーさんなど知らないくせに、「物真似の物真似」で、「なんとかなるわ〜!」。

 そんなサブシロ、特にシロー師が世に広めたといわれる、在阪某局、当時の演芸番組担当の名物プロデューサー氏の物真似。後も大のち、私めが台本コンクール用に初めて書いた漫才台本が佳作を頂くこととなり、自宅に一本の電話。受話器の向こう、声の主は、何とその、名物プロデューサー氏。伊達に名前と物真似が先行していたので、思わず、

「あの、シローさんやオール阪神さんが物真似される…あの方ですか?」

 なんちゅう確認や(笑)。先方も苦笑いしながら「あ、そうです」(笑)。

 サブシロの漫才などで聴いた、想像だけが膨らんでいたご当人と、後にお会いすることとなり、直接会えば会うほど、口調は、物真似のまんまの方でした(笑)

 ちなみに、佳作をもらった台本。書き方が分からないまま、とにかく手元にあったテープを何度も聴きまくって、「こんなものかな」という感覚だけで書き上げました。そのテープとは、ABCラジオで放送された「サブシロ漫才60分一本勝負」なる番組。1985(昭和60)年ごろ放送、文字通り60分ノンストップの爆笑に次ぐ爆笑の掛け合いで、当時のサブシロの勢いなればこそ成立した番組。

 台本コンクールに提出したのは、1996(平成8)年で、サブシロとしては既にコンビとしての活動を停止されていたものの、参考になる資料といえば、そのテープしか無かったので、とにかく聴いた聴いた。

 「やすし・きよし」から「吉本マネジャーさん」まで…物真似を真似する程度の影響ならまだ可愛いものの、ついにとうとう、漫才(台本)そのものまでも、サブシロ漫才から真似してしまって、今日現在…。


 最も影響を受けた、漫才コンビです・・・。
 「旧なんば花月めくり」シリーズその第5弾。コント赤信号

 漫才ブーム当時、「お笑い超特急」なるイベントがなんば花月で開催され、イベント出演に絡めて、10日間の定席にも出演。そのときの物と思われます、「めくり」。

 aka 兄貴〜、いつもキマってるぜ!。

 まぁな!

 その、レーバンのサングラス!

 まぁな!

 サンローランのジャケット!

 まぁな!

 VIGIのパンツ!

 まぁな!!

 そしてこの、フクスケの足袋!!

 リーダーの渡辺正行、子分役の小宮孝泰、そんな二人の不良グループに加えてもらいたい優等生役の石井章雄こと現在のラサール石井…と赤信号出世作のこのコント。リーダーはもちろん、その引きたて役に回って、上記のコントでいえば『フクスケの足袋』までの台詞のようにネタ振りをかます子分の小宮さん。二人が派手に動く分、優等生役の石井さんはやはり地味で、子供ながらに「この3人でスグ消えるのはこの学生服のやつや」と決めてかかってコントを見たもの。レツゴー三匹でいえば長作師のような存在か(笑)。それが今やご存知、ステージにこの男ありとも言われる大演出家。考えたら、長作師も歌が上手いという取柄はあった。
 
 所詮は子供。見た目でしか物事左右しない、その典型的な例。

 この「足袋」までの流れに、「兄貴〜!」とリーダーを呼び寄せて登場の渡辺さん。開口一番、サングラスを外すと、目の回りがラメラメ…ツカミ。
 これを真似したくて、家の和室の壁から落ちた光るツブを拾ってわ目に、拾ってわ目に。それだけではなかなか粒が集まらないので、壁に直接手を当ててザ〜ッと擦り付けたところで、

 「しょうもないもんの真似しな!」

 と必ず母親に怒られるのが、まぁ、お約束でした。

 「おたくの殿堂」4Fにて展示中の、河内家菊水丸師所蔵の「旧なんば花月めくり」シリーズ。今回は、島田紳助・松本竜介のご両人。
shinryu 展示品には「紳助・竜介」のものに、「愛のイマジネーション 紳助・竜介、Wパンチ」というめくりも展示。Wパンチとは、「クイズ!紳助くん」(朝日放送/毎週月曜夜11時17分〜12時17分放送)や「オウミ住宅」のCMで活躍の言えばご存知、パンチみつお師とけいすけ師のコンビ。「ヤングおー!おー!」(毎日放送/1969〜1982年)では最後期に村上ショージさんや前田一球・写楽さんなどと「パッパラパーズ」の一員として活躍。「『ヤングおー!おー!』に出演出来たらスターへは約束されたようなもの」というジンクスを、見事に打ち破った方です(笑)。ともあれ、紳竜、Wパンチで『愛のイマジネーション』…一体どんな舞台が繰り広げられたのやら、妙に興味をそそられます(笑)。実物は是非、「おた殿」にて。

 紳竜といえば、この春、関東地区で放送された「今日は松本竜介の一周忌やねん」(フジテレビ/2007年4月1日放送)が、ようやく関西でも放送され(4月29日)、やっとこ昨日、DVD録画したものを見たところ。フジテレビ制作なので「笑ってる場合ですよ!」(1980〜1982年)「オレたちひょうきん族」(1981〜1989年)より、貴重な映像が流れてましたが、特筆はやはり紳竜コンビ、全国区への切符を掴むことにあった「THE MANZAI」(1980〜1982年)での漫才がたっぷり。この番組と「花王名人劇場」(関西テレビ/1979〜1990年)がキッカケとなって吹き荒れた漫才ブーム。その渦中、各局数多に制作された膨大な漫才番組のなかで、最も紳竜らしい、というよりも漫才ブームで活躍したツービートであれ、ザ・ぼんちであれ、西川のりお・上方よしおであれ、どんな番組よりも、ライバルの切磋琢磨、競うように熱のこもった漫才が繰り広げられたのが、この2本だったはず。
 ブームをキッカケを作っただけに、演者にとっては、その枠を提供してくれたという恩義もあれば、そこから上り詰めて、ブームの主役となった各コンビのプライドや、制作側にとっては自負も含めて、互いの、最もステータスシンボルに溢れていた番組が、この2本。今回の特番では、「THE〜」シリーズ初期のVTRが流れ、まさに紳竜パワー全開。しかもコンビを組んでわずか2年目で演じられたというから、余計に「芸術の域」と呼ぶに相応しい丁丁発止…。見てて思わず鳥肌が立ってしまいました。

 自身の漫才を、スタジオでじっくり見入る紳助師。

 「こんなに自分たちの漫才を見たのは初めてや」

 現在のレギュラー番組も、滅多にオンエアチェックをされないそうで、漫才となれば、思い入れもあって余計にそうだったはず。そのVTRを25年を経てじっくり眺めながら最後に

 「ああ、これは天才やな。けど、(2年目にして)こういう(完璧な)漫才を竜介に強要してたとは、これは無茶やわ(笑)。ゴメンな竜介」

 何も優勝や、賞金1000万円無くしても、これだけの漫才が、東西より選ばれ師数組の同世代が集って、競い繰り広げられていたあの漫才ブームは、まさに奇跡の瞬間だったのなと改めて実感した次第。

 そんな紳竜漫才の、DVDが発売されます。収録される漫才は「THE〜」や「花王〜」からの映像が中心となるのだとか。スゴイ漫才が詰まっていそう…。
紳竜の研究 紳竜の研究
島田紳助、松本竜介 (2007/05/30)
アール・アンド・シー

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 遠方より便りありけり。封書宛名の裏見れば、差出人は久方ぶりの、かつて大変お世話になった方。母親によると昨日の夕方に届いたようですが、昨日は一日夜通しでバタバタしていたので、開封したのは結局、今日になって。

 分厚い定型封書。ワクワクしながら中身確認すると、出てきたのはある落語会の案内チラシと、その会に出演される落語家さんがある雑誌に綴ったエッセイのコピー数枚に、丁寧な手紙をしたためて。

 まずチラシを見ると、その落語会とは、立川談春師の独演会、しかも天満天神繁昌亭、初御目見得。兼ねてよりスポーツ紙でも報じられて、ちょうど関心を持っていたところの、そんなタイミングで届いた手紙は、差出人の至極個人的な談春師への思い入れたっぷりに綴られた文章。読み進めると差出人、大阪より東京へ転勤以来2年間、かねてより好事の落語を上方から江戸へとシフトして、特に談春師の落語にはゾッコン、ハマられた様子が、差出人の独特な表現によって、愛情豊かに詰まっていました。

 そして最後に、要は「談春落語、今やオススメ。今回はあくまでも個人的な宣伝」とあって「貴重な落語体験が得られるはず」と。差出人の方、それはそれは、趣味が講じて今や実益を兼ねた(?)、つまりは大阪時代よりほぼ演芸一本で突っ走ってこられた、職業は某放送局のディレクターさん。演芸やバラエティ番組数あれど、実際に落語会や漫才の、ホールや会場に足を運んで自分の目で耳で、ライブの醍醐味を感じながら自身の仕事に結びつけてこられたのは、おそらく関西では、この差出人のほか、今のところ見当たらないよう思います(見当たらないのは、私めの付き合い範疇の狭さもあるのですが 笑)。とにかく以前は、落語会場でよくお会いした分、勝手にこちらとしても信用を寄せている方でもあり、何はともあれ、今回の便りは嬉しい限り。しかも、手紙の最後には、そんな貴重な落語体験を、「じゃあ行きましょうよと思う人たちが集まればよいなぁ」と、これまたこちらのウレシ豆をくすぐってくれる〆めの一節。

 感激に暮れながら、封筒から手紙にチラシにコピーに一切合財取り出して、ハレ?ホレ?アレ?と何度も見返したところ、談春独演会の、肝心のチケットが入っていない。アハハ、当たり前か。それは考え甘過ぎた(笑)。

 何はともあれ、会は7月。それまで色々頑張って、何とか繁昌亭に出掛けることが出来ればな…(このところ、色々とピーピーで、差出人様、お約束できずにスミマセン…と、この場を借りて“近況”報告 笑)。

「立川談春独演会〜繁昌亭で談春!江戸芸人ひとりぼっち」(天満天神繁昌亭/2007年7月21・22日 開場夕方5時30分、開演夕方6時00分〜)
 河内家菊水丸師所蔵の「旧なんば花月めくり」豪華40枚組に並ぶ、すなわち、旧なんば花月の檜舞台を踏まれた芸人さんの落書きショウ、第3弾。

enjo 三遊亭円丈師匠。六代目三遊亭円生門下で、先ほど引退表明された三遊亭円楽師の弟弟子にあたる方。なんば花月に出演されたのは、恐らく漫才ブーム、その余波は特に関東では落語界にも及び、そのなかで飛び出したのが、当時、若手36人ゴボウ抜きで真打ち昇進を果たした春風亭小朝師と、矢継ぎ早にメッセージ性あふれる新作を発表したこの円丈師。というわけで1980年代初頭と思われます。

 円丈師はまず、ビジュアル派でもある方で、着物には、交通標識や、ディズニーのキャラクターなどのワッペンを貼りつけて、時折、出身の名古屋弁を怒涛のように捲くし立て、熱演ぶりを前面に押し出した芸風で、テレビやCMでも売れた方。子供ながらに、それよりちょっと前に売れた、講談の田辺一鶴師の芸風とちょっとダブって見えました。
 CMでは、当時阪神タイガース掛布雅之選手と競演した「蚊にはキンチョーマットです」が懐かしい。

 その後、現在に至るまでとにかく新作一辺倒のおっ師匠さんで、当時の円丈落語を見て育った世代が、現在の関東落語界、春風亭昇太師や柳家喬太郎師といった、今を支える新作派として成長。現在40代あたりの新作派の皆さんは「俺たち、円丈チルドレン」として、円丈師の功績を称えています。上方でいえば、笑福亭福笑師のような存在か。そういえば、先日の「円丈・福笑二人会」は、両師の熱狂的マニアックなファンが天満天神繁昌亭に溢れ、異様な盛り上がりを見せたのだとか。神社の狛犬マニアとしても有名で、繁昌亭出演の際はやはり隣接の天満宮の狛犬もちゃんとコンプリートされたのでしょうか?

 いずれは生で拝見したい東西新作派のツーショットでございます。

 そんな円丈師のめくり。落語であろうが何であろうが人気者であれば関東からでも積極的に客演として花月に呼び寄せた、当時の吉本興業の姿勢がしのばれる一枚です。「おたくの殿堂」にて展示中。
 「さてはトコトン菊水丸」(MBSラジオ/2007年5月18日放送)金曜版『トコトン生ゲスト』は月に一度のお楽しみ、西川のりお師匠、ご来場。

manga1974 前回のご来場から1ヶ月、横山ノック師がお亡くなりになるなど、世の中色んな出来事がありましたが、そんなノック話にちなんで、若き日ののりお師に「漫画トリオ」加入の計画が存在したという話を以前に拝聴。せっかくなのでこの機会、どうしても、当時にいきさつやお話を伺いたく、こちらの落書きと合わせてご笑納。期待通りの、いや、期待以上の貴重なお話を乞うことが出来ました。

 「漫画トリオ」加入秘話。実は以前に上岡龍太郎さんが「鶴瓶上岡パペポTV」(読売テレビ)やラジオの「歌って笑ってドンドコドン」(ラジオ大阪)でも既に語られたこと。ただ私めの勝手なうろ覚えな点もあり、復活計画が頓挫したのは、先日の「横山ノック波瀾万丈75年史」にも書いた、「のりお師の低音が、例の『パンパカパン』にそぐわなかった」という理由も、あくまで理由のひとつに過ぎなかったわけで、今回のお話では、心底にもっと複雑な理由が存在したことが再確認出来ました。また、のりお師が「西川のりお・上方よしお」の前に組んでいた「横中バック・ケース」の、てっきり『解散後』のトリオ加入かと思いきや、どうやら、バック・ケース存続中の出来事であったそうで、これもご本人から伺って、なるほど!。

 のりお師によると、1968(昭和43)年に参議院選に当選したノック師が、二期目を目指して出馬した、1974(昭和49)年の同選で落選してしまったことに端を発するもので、当時、のりお師は、師匠の西川きよし師をしくじり、きよし師と同じ吉本興業にすら居座ることが出来ず、松竹芸能へ移籍。屋号の「西川」も返上して、同級生であった相方と「横中バック・ケース」を結成されていたころ。ちなみに「横中」とは、漫才の名門「横山」と「中田」を足して2で割ったもので、名人への願いとある種のパロディも兼ねて命名されたと言われています。

 ノック師落選と偶然にも時期同じころ、バック・ケースののりお師にそろそろ「吉本復帰」の話がもたらせていたよう。しかしいきなりライバルの松竹から再移籍というのも仁義としては難しいので、やんわりとクッションを置いてその算段が練られてたようです。そのクッションとして選ばれたのが、吉本より既に独立を果たしていたノック師の「横山ノック事務所」で、仁義への配慮役を担われたのが、ノック師初回の参院選のスタッフにいた、当時の吉本のマネジャー氏。そんな関係で、当時のノック事務所、所属の上岡龍太郎さんに加え、バック・ケースも同じ所帯となって、営業などのステージで一緒に過ごす機会も増えていきます。のりお師によると、バック・ケースが前座と務め、その後をノック・上岡がコンビで漫才を披露。ネタのほとんどを「ハゲネタ」で終始したという…これは後に上岡さんが語っていたことですが、「ノックさんは僕の『金のなる木』(笑)」。あの頭で天下一品のボケとくれば、トリオ解散後も名コンビ、ツッコミ師の上岡さんの笑いが止まらなかったことでしょう。

 参院選落選により、タレント活動専念としてノック師、上岡さんとのコンビのほかに、政治漫談やポケットミュージカルなどで、吉本の舞台に舞い戻るも、どうしても一人高座は割りに合わない。やはり元々漫才師、上岡さんのような相方を立ててこそ例の大ボケが光るというもので、ならば夢よもう一度、さらにフックを加えてここに「漫画トリオ」復活計画を成されたという流れに。しかし、ノック・上岡師は良しとしても、肝心の「フック」のポジションは空白に。かつての「横山フック」改め青芝フック師は、既に「青芝フック・キック」の新コンビで人気が台頭しつつあるころ。今さら「横山フック」に戻るわけにもいかず、また、初回の参院選、唐突の出馬、そしてトリオ解散という立場に追い込まれた、フック師にとってのある種の「遺恨」はまだまだ拭えないころ。その遺恨を払拭すべく、「フック・キック」への意地の専念で、新たなポジションを折角築き上げたので、今さらなおさら。候補探しに奔走しながら、
「そういえば、前座で出てた『バック』がおったよな」
 その白羽の矢が立ったのが、現在ののりお師、というわけです。

 復活・漫画トリオ。その大々的な発表は、当時の毎日放送千里丘放送センターで行われたと、ある演芸書物にあります。会見は、ノック・上岡のみで、3人目のメンバーは新人で「デビュー高座をお楽しみに」という触れ込みもあったようで、ともあれ、新漫画トリオへの世間的な期待は高まっていくのでした。そんな期待に応えるべく、のりお師を含めた新トリオ、その強化練習@ノック邸。

 フック枠に大抜擢の、のりお師。青芝フック師が存在するので「フック」とは名乗れず、新芸名を、ノック師かつての相方の名であった「横山アウト」と命名されて、連日連夜のパンパカパン。ノック・上岡両師はともかく、「バック・ケース」から「漫画トリオ」といういきなりの大看板を背負う事になった、のりお師は、そのプレッシャーよりもどうやら、その「大出世」に伴う看板やギャラアップへの下心がソワソワ。存続中のコンビの未練はどこ吹く風であった様子(笑)。後は、新トリオのデビューを待つばかりと、そんな矢先、

 「ノックさん、もう選挙には出えへんやろな」

 いきなりの、上岡さんからの確認があったそう。当のノック師も唐突の質問だったのか、思わず返事を言いよどんだようで、しかもその雰囲気は3年後の参院選、再出馬を臭わすものであったとか…。先輩二人の暗雲、雰囲気にのりお師こと「新アウト」、心のなかで「『アウト』でも『セーフ』でもエエから早よしましょうや」(笑)。
 何せ、スターの座が目前に約束されたポジション、否がおうにも浮き足立つのも無理のない話。にも関わらず、

 「もう、この話、無かったことにしよう!」

 ノック・上岡、どちらともなく導いた結論でした。ノック師にしてみれば、落選という形で断ち切られた政治への未練はまだまだある。一方の上岡さんにしれみれば、前回の選挙でトリオ解散、そして路頭へと叩き落された、やはりフック師同様の少なからずの「遺恨」もあった。「漫画トリオ」として初代フック時代からのオリジナルメンバーということもあり、上岡さんの場合、前回の出馬の段では事前に相談も受けたようで、今後の身の振り方を考える余裕もあったとはいえ、当選後の解散、現実のものとなってから、単独活動、その数年の苦労は相当のものであったのです。あれから6年、フック師の「フック・キック」同様、ようやく築き上げたタレントとしての立場を、再び再出馬によって崩されるのは、さすがの上岡さんですら、ガマンならなかったということでしょう。

 かような理由で折角、会見まで開きながらも復活トリオ計画は頓挫。濡れ手に泡の、のりお師出世コース、にわかな夢の泡もあっというまに弾け飛び(もっとも数年後、本物のバブル崩壊の憂き目に見舞われる、のりお師ですが 笑)。

 これをバネにしてか、バック・ケース解散改め幻の「横山アウト」改め、西川のりお師となって、バックにスピンにアウトロードを紆余曲折の末に何とか吉本復帰。翌年、馴染みの芸人仲間であり、島田洋七(当時・島田洋一)師の2番目の相方(3番目相方が現在の島田洋八師)として「B&B」(第2期)、コンビにあった上方真一師が解散後、芸名を上方よしおと改めて、「のりお・よしお」、コンビ結成。この数年後の漫才ブームで大スターの仲間入りでホーホケキョ!…と相成る歴史。

 スターになってからノック・上岡のご両人が司会する「ノックは無用!」(関西テレビ)に、のりお師がゲスト出演されたときのこと。

「あのとき、トリオ組んでなかったからこそ、君がそこに居れるわけや」
と、豪快に笑いながらノック師、なるほど理屈。おかげで漫才ブーム、特異で突出の「のりよし」漫才、トリコで堪能の現在、この私(笑)。

 しかし、もしも、そのまま漫画トリオを復活させていたら…と、パンパカパ〜ンとリズミカルなのりお師も見てみたかったような気もします。今やその、パンパカパンのパンが転じて(?)、「のりおちゃん、ポン!」(笑)。

 ちなみに例の「今週のハイライト」。「パンパカパン」ではなく、実際はラッパ音で「パンパラパン」であったということも、今回、のりお師より伺うことが出来ました。

 演芸史、貴重な1ページでございます。番組の方におかれましても、またMBSラジオにおかれても、今回の放送、今後のためにも要永久保存でお願い致します(笑)。
kankan02 今年の正月のテレビ「初笑い東西寄席」(NHK/2007年1月3日放送)で見た漫才で、お痩せになった、はな寛太師の姿を見て、「まさか?」。それが現実のものとなったようで、非常に惜しい。

 はな寛太・いま寛大松竹芸能を代表する名コンビも、元々は「松竹新喜劇」出身で座長・藤山寛美師の薫陶を受けた役者さん。しかし、当時の新喜劇は寛美師に加え、二代目渋谷天外曾我廼家鶴蝶千葉蝶三朗といった、綺羅星の名手看板揃いの黄金時代。これでは役者としてとても頭角表せぬと、漫才へ転向。寛美門時代の名残が「寛太・寛大」として今の芸名に。名付け親はもちろん、寛美師。しかし漫才に転向したものの地方回りで修業期間を過ごし、ある日の名古屋、老舗で唯一の演芸場である大須演芸場で同席したことが縁で、「檜舞台の大阪入りを」。夢路いとし・喜味こいし師匠の勧めでした。

 その誘いを受けた寛寛師、いとし・こいし師が親代わりとなって、当時ご両人が所属した東宝系の劇場「梅田トップシアター」に出演。ようやく晴れの大阪、棲家を得た…と思ったらその矢先、劇場閉館に。流れ流れて現在の松竹芸能、角座浪花座へ出演…と相成るのがご両人の歴史。

 考えてみれば、今の松竹芸能が誇る漫才陣のほとんどは、寛寛師同様、流れ流れて松竹入りを果たし、真の生え抜きというのはいないに等しいかもしれません。例えば、レツゴー三匹師は、じゅん師は元々吉本新喜劇、正児師は横山やすし師とコンビを組んでやはり吉本の舞台にも。長作師も確か、松竹新喜劇座員だったはず。
 酒井くにお・とおる師は東京漫才の、さがみ三太・良太門下で、浅草の演芸場を踏んだあと上阪し、最初に踏んだのが吉本の舞台で紆余曲折で松竹入り。
 海原はるか・かなた師は、海原お浜・小浜門下ということもあり、当時お浜・小浜師が出演していたトップホットシアター出身で、所属事務所もケーエープロダクション
 生え抜きという意味でいえば、辛うじて、横山たかし・ひろし師あたりか。しかしこちらも、師匠が横山やすし師、大師匠が横山ノック師と代々吉本出身。以前の角座が閉館したときは、両師匠の伝手で吉本移籍の話も持ち上がったこともあったほどで、ともかく今やもちろん、松竹を代表する看板も、それぞれの紆余曲折の芸歴同士が、混沌と入り混じる分、巨大な一枚岩としてのイメージが強い吉本勢と比べて、個々のカラーが独特。いわゆるこれが吉本との色合いが異なる、「松竹カラー」と呼ばれる部分ではないでしょうか。

 話戻して寛寛コンビ。面白かった。独特でした。「ちょっと待ってね」…これが飛び出すたびに、待ってました!(笑)。なおの言うに事欠いて、天童よしみ「珍島物語」をそのままパクって、「珍島ちょっと待ってね物語」(笑)。これだけでもオカシイのに、さらにこのネタが元は20年以上も前のヒット曲、「ヒロシ&キーボー」『3年目の浮気』をパクった「3年目のちょっと待ってね」というネタを、「珍島〜」に合わせてリバイバル。時代とともにリバイバルヒットさせた漫才のネタというのは、考えてみたらチョットないかもしれません。「3年目のちょっと〜」を知ってる分、「珍島ちょっと〜」とやられた日には、マニアとして、どれだけ嬉しかったことか(笑)。「3年目〜」ではレコードの時代を、「珍島〜」ではCDに代えて…あ、これがどんなネタか軽く説明すると、

 漫才師も歌手になる時代や。そこでワシ(寛大)も今度新曲を出す事になった…で、どんな新曲と尋ねられたら「3年目のちょっと待ってね物語」(笑)。オリジナルの歌詞の随所に「ちょっと待ってね」と自身のギャグを放り込んでズボラな新曲発表。その司会と伴奏を担当するのが寛太師で、これがどうも無茶な司会でそのたびに、寛大師「歌えるか〜!」。
 「3年目のちょっと〜」て、そらパクリやないか!とツッコまれて、B面も考えてある。B面は流行りの英語の歌でタイトルが「ジャストモーメントプリーズ」…日本語に訳したら、「ちょっと待ってネ!」、というのがオチ。これを数年後「珍島〜」に替えて、CD時代にも関わらず、やっぱりB面が…CDにB面があるのか!とツッコまれながら、オチは同じ「ジャストモーメント〜」。
 …こんなズボラな、ネタのアレンジはなかった(笑)。しかし肩の凝らない、他愛の無い、アホらしい(笑)…。寛太・寛大といえば、このネタ。ほかに定番といえば、夏になると、怪談「悪の十字架」(このデパート、開くの10時か?)。お正月には「カルタ取り」のネタで何故か最後は二人でパンツ一丁(寛大師の派手なトランクス 笑)。ほとんど、これが持ちまわりで上演されました。

 しかしこれも、お客で見ていた分には良かったのですが、私め個人、後に漫才を書くようになったときは、「珍島ちょっと〜」と演られても、「ああ、またいつものネタか…」。
 寛寛師が師匠と崇める、いとこい師が続々と新作を手掛ける分、その姿は本当にズボラに見えたもの。もちろん、番組によっては寛寛師、新作を手掛けるも、滅多と再演の機会は無かったように思われます。やがて、そんな動きが、これは端から目撃したことなんですが、ある漫才番組の出演者選びの段階で
「寛太・寛大?…面白いけど、新作演らんからなぁ」と、これだけの理由で選に漏れたのを目撃しています。

 好きな漫才コンビではありましたが、これはこちらの勝手な都合でもあるのですが、やっぱり新作をどんどん手掛けて欲しいなと思いました。たかし・ひろしを筆頭とする松竹漫才陣、その先頭集団から徐々に遅れを取ってしまった開き直りもあったのではないか。いずれにしてもイメージとして、停滞した状態が続いたそんな矢先、師匠筋であった夢路いとし師匠がお亡くなりになったのです。2004(平成15)年の秋のこと。
 いとし師の遺志により、死去が公表されたのが実際の確か3日後。それまで既にご親族による葬儀も執り行われ、その席に演芸界からはほとんど唯一といってよい位置で、寛寛師は参列を果たしています。その後の追悼番組でも「弟子」として各番組に出演されました。

 さぁ、ここからです。いとこい漫才が紡いだ数多くの名作、言うなれば漫才界のお宝作品を、漫才弟子筋として唯一の存在である寛太・寛大師が徐々に引き継ぐことを決意されたのは(桑原和男師、楠本見江子師もいとこい門下にあるが、吉本新喜劇のコメディアンなので)。

 これを境に、寛太・寛大師、いとこい作品継承を含めて多くの新作も手掛けられました。元々味のあったコンビなので、どんなネタも寛寛風味、しかも円熟の香りさえ漂わせ、「寛太・寛大再評価」の動きが高まっていくのを、下っ端なりに感じたものです。いとこい漫才継承の第一弾が、名作「ジンギスカン鍋」、生きてる間がニワトリ、死んだら戒名がカシワ(笑)。

 確かこのネタを出演の、定席のB1角座で何度か馴らし、やがてワッハ上方で開催された「夢路いとし三回忌追善公演」、舞台袖には喜味こいし師が眺めるそばで演じられたのを、客席から拝見しました。

 「演りにくいやろなぁ」と率直な思い。これは一般のお客さんも感じながらその舞台を見つめたのではないでしょうか。しかしそんな杞憂もあっという間にどこかしら。骨太なオリジナル(ネタ)に、程好く引き締まった寛太・寛大というお肉が熟成された、まさに上質「ジンギスカン鍋」。羊肉に臭みがるように、師匠の作品を継承する気負いが臭みとなるか…いえいえ何のの、この時点で「寛太・寛大のジンギスカン鍋」、立派な伝承が成されたと感じました。

 口幅ったいようですが、寛寛師、偉大なる漫才師の弟子として、また漫才師としての自負がようやく目覚めたのがこのころだったのではないでしょうか。「ジンギスカン鍋」のほかにもいとこい作品やオリジナルの新作を続々と手掛けられます。そして、ついに、先述の選漏れしてしまった漫才番組に、見事返り咲きを果たされたのでした。演じたのは「ジンギスカン鍋」と、また別の回では「珍島ちょっと待ってね物語」も。

 いとこい継承も含めた新作と、それまでの十八番の両輪が相俟って。特にそれぞれに、バカバカしさと、さらに温かみ、味わい、深み…いずれにも拍車がかかりました。若手漫才からも慕われ、幕内からも多く愛された方で、島田紳助氏、松本人志氏が素人時代、少年時代に「好きな漫才でした」と称したほど。これだけでも若い世代のお笑いファンには、その実力が伝わるはず。

 また、松竹新喜劇出身のキャリアが生かされて、藤山直美さんの一座では名バイプレイヤーとして常連として出演。寛美・直美と2代に仕え、また「いとこい漫才」の当人公認お墨付き、まさに真の継承者として、喜劇界、演芸界、それぞれ鉄壁の後ろ盾が揃い、ベテランながらもさぁこれからという時でした。折角鍛えたボディビルの肉体も寛太師、病にはついに勝てず・・・。

 いとし師三回忌公演。最後の漫才を演じ終えて、袖から登場のこいし師、

「どうなることかと思たけど、良かった。これからもドンドン演ってちょうだい」

 これに調子に乗って寛大師(笑)、「ほな、僕が『二代目夢路いとし』を襲名して、相棒は…」。すかさず、
  
 「『初代』はまだここに居る!」、絶妙の初代(笑)。しかし余程、嬉しかったのか、「ワシが死んだら、あとは好きなようにしなさい」

 道理からすれば、将来は「二代目いとし・こいし」が多くの喝采を持って、賑々しく誕生したはず。個人名を襲名することはあっても、コンビ揃って襲名というのは恐らく漫才界初の快挙。ならばその喝采も一層なおさら。

 漫才師が片方欠ける寂しさと、今回は、先日のノック師の訃報もあって、ノック師を弟分のように可愛がってこられた、こいし師の、今度は息子のように可愛がっておられた寛太師までも奪われてしまった、現実。

 現実とはこうも、正直で非情なものかと改めて。そして、寛寛漫才、志半ば、勿体無い。

 はな寛太師のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。(2007年5月15日)
kankan 姉はペテン師、
 妹は詐欺師、
 下のチョロ松、イカサマ師、
 ワタシャ落ち目の漫才師。
 嗚呼、こんな一家に誰がした、
 教えてちょうだい、夜の星…。
 それでは、
 「珍島ちょっと待ってネ物語」
 どうぞ〜!

・・・歌えるかァ!(笑)

「上方漫才まつり50回記念スペシャル」(毎日放送/2004年5月1日放送)より。
 「秘宝館勝手に便乗名人劇場」第2回目は、浪花節の初代京山幸枝若師匠。
koshiwaka 直接の高座はもちろん拝見したことがないのですが、堅苦しくも古めかしいイメージの浪曲、浪花節も幸枝若師の音源を聴いて、いっぺんに何と分かりやすい世界観よ、と目を見…いや、耳を聴き張った(?)もので程なくして、「フリーチャンネル枝雀寄席」(朝日放送)、観覧で見た春野百合子師の「樽屋おこん」でドンピシャリ。何せ、歌はある語りはある、笑いはある涙はあるで、これぞ一人ミュージカル。

 春野師は今も健在であられるも、幸枝若師はもうお亡くなりになって数年。息子の京山福太郎師が昨年、二代目幸枝若を襲名されたほどで、それぐらい年月が経つにも関わらず、未だに早朝のラジオ、浪曲番組ではリクエストも放送回数もダントツ。古くからの演目以外に、「あさま山荘事件」などその時折の新作を手掛けるなど、大衆派の超スター浪曲師であったことが今もって偲ばれるまさに名人、おっ師匠さん。

 一度で良いから生の幸枝若節、河内音頭を拝聴してみたかったものです。
 大阪・日本橋「おたくの殿堂」4階にて開催中の「河内家菊水丸秘宝館」、そのメイン展示物である『旧なんば花月めくり40枚』。これに便乗してシリーズで落書きショウを今回より。
panda その第1回は「ザ・パンダ」「ヤングおー!おー!」(毎日放送/1969〜1982年)より飛び出した、四代目林家小染桂きん枝月亭八方桂文珍による若手落語家ユニット。人気アイドル「フォーリーブス」の落語家版という、今思えば何とも無茶な売り出しぶりも(笑)、当時は落語ブーム真っ只中。需要と供給が見事マッチで、時代と司会の桂三枝師のツッコミに乗ってあれよあれの人気者に。このノウハウが後の漫才ブームへと繋がる「チンチラチン」ダウンタウンを筆頭とする「心斎橋筋2丁目劇場」、さらにナインティナイン雨上がり決死隊らの「吉本印天然素材」など、スター育成システムとして発展。その礎を築いた、今やえら〜い、お師匠っさんたち。

 惜しむらくは四代目小染師匠。今も健在なら「ザ・パンダ同窓会」のような落語会がきっと天満天神繁昌亭で。

 日本のジョーシキです!…のヒットギャグに恵まれCMも多数出演。今のミナミの地下街「なんばウォーク」はその昔「虹のまち」と呼ばれていて、人形劇になったパンダのお師匠っさんによる「♪大阪〜ミナミの〜虹のまち〜…チャンチャン!」…は、今だあの近辺を通るたびに脳裏に過るCMソング、名作でございます。

 ※ちなみに展示の「めくり」は4人それぞれ個別に展示されています。
danshi 「横山ノックちゃんを愛してました」

 らしい、おくやみ中のおくやみの言葉を贈った立川談志師匠。
 そんな家元の、無性に落語が聴きたくなって、保管してあるあれこれテープやらビデオテープの山のなかから色々探してあててようやく一本、「EXテレビOSAKA」『立川談志・鉄拐』(読売テレビ/1991年放送)を録画したものを発見。じっくり楽しむべくいざ再生と、デッキのボタンを押すと、これがもう画像がヒドイの何の、ノイズだらけのキズだらけで見れたものではなし。以前4台あったデッキも段々廃れて、とうとう残った1台がこれでは、手の尽くしようなし。う〜ん…。

 確か番組は、司会の上岡龍太郎さんが冒頭に談志師匠のこと、落語のこと、演目についてなどを語り、その部分に予定のCMを全部放り込み、肝心の落語は後半40分強をノーCMで放送したはず。こういう構成、民間放送としてはまさに英断で、よくぞこういう企画を放送してくれたものと感謝しながら、ついでに自分にも「よう保存しといたこっちゃ」。

 とは言え、ビデオ再生…この様子(ざまぁ)。再生ヘッドの問題か、それともテープ自身が傷んでるのか、何にしてもクリーニングテープだけは購入しなくては。そして首尾良く再生出来たら、今度はDVDにも焼いておかなければなるめえ…。

 そんなテープが山ほどござい。う〜ん…。
Wyokoyama 横山ノック横山やすし…考えてみたら、とんでもない系譜、師弟でございました(笑)。
 初七日も済み、お別れ会が開催されるなど、下界ではそれぞれのセレモニーも滞りなく進むなかで、果たして、天国の師弟はいかなる様子で下界を眺めていることやら…。
 20年以上前に一度、また「花王名人劇場」(関西テレビ)でも拝見したことのある、師弟漫才。極楽花月は「W横山」の登場でさぞ大賑わい満員御礼。楽屋に押しかける芸人仲間も多数で、その高座、しかとこの目で生き証人として、我先見んと、ん、生き証人…か?(笑)

 極楽も、にわかにそぞろな、新コンビ。