NOMI08

 ヘトヘト渦中。穴埋め手抜きでごめんやす。こんな録画番組が残ってました。

毎日放送
 ▽しゃべり続けて40年 浜村淳ですありがとう
  西川きよし、月亭八方、太平サブロー、ハイヒール、
  寺嶋千恵子、横山ホットブラザーズ、松原のぶえ、松井昭憲(MBS)
  桂米朝(VTR出演)    (1997年6月7日放送)

 ▽保存版!笑いと涙で綴る落語家・桂文枝
  桂文枝、桂三枝、桂きん枝、桂文珍、西川きよし、
  桂米朝、桂米之助、桂春団治、横山ノック、
  大久保怜、山村楽正、京極利則、春日とよ子、
  桂文太、桂小軽、桂文福、桂文喬、桂文也、桂小枝、桂三馬枝、
  桂あやめ、桂小國、桂三象、桂珍念、桂小茶久、桂こけ枝、桂つく枝
  桂三若、桂ちゃん好、桂かい枝、桂阿か枝(1997年6月8日放送)

 ▽私立板東学園
  「ええとこどり総集編」
  円広志、オセロ、トミーズ、久本朋子、ダチョウ倶楽部、
  ガダルカナル・タカ、松崎しげる、林家こぶ平 ほか(1997年9月27日放送)
 
 ▽特選!落語全集
   「花筏/桂南光」「坊主茶屋/月亭八方」(1998年6月23日放送)
 
 ▽吉本版!年忘れ'98芸能ニュース!!
  太平サブロー、ハイヒール、おすぎ
  坂田利夫、トミーズ健、桂きん枝、中田ボタン、石田靖、山田花子、
  VTR…どんきほ〜て、今いくよ・くるよ、トゥナイト、月亭八方、
   月亭八光、おかけんた・ゆうた、辻本茂雄、藤井隆、池乃めだか、
   末成由美、中山美保、浅香あき恵、内場勝則、未知やすえ、
   オール阪神・巨人、西川のりお、吉田ヒロ、桂三枝、西川きよし、
   桂小枝、大木こだま・ひびき、島木譲二、宮川大助・花子、
   島田珠代(登場順)(1998年12月29日放送)

 ▽イカにもスミにも「藤山寛美さんを偲んで」
  角淳一、浜村淳、横山ノック、桂文珍、黒田清(1990年5月22日放送)

毎日放送
 ▽ミヤコ蝶々特別公演「あんたもわたしも失楽園」
  日向鈴子・脚本/演出、桂文枝、星由里子、入川保則
   〜大阪・道頓堀中座より中継録画(1998年4月26日放送)

 ▽豪快!御影屋「最終回」(放送年月日不明)

 ▽円広志のグルメデート「400回記念特番」(放送年月日不明)

 ▽特選!落語全集
   「有馬小便/桂春若」「人形買い/笑福亭仁鶴」(1997年8月25日放送)
   「へっつい盗人/桂都丸」「青菜/桂南光」(1998年4月26日放送)

 ▽よしもと新喜劇「パリの空へボンジュール」(放送年月日不明)
 バタバタ渦中。穴埋めも兼ねて(笑)、久々に。

関西テレビ

 ▽関西テレビ放送開局30周年記念特別番組MAGMA30
    〜万博公園一帯より生放送
  『オープニング』
   総合司会・板東英二、秋野暢子、桑原征平(関西テレビ)
  『ノックは無用スペシャル ミスMAGMA30コンテスト』
   横山ノック、上岡龍太郎、大島渚、池上季実子、森田健作
   ピンクの電話、海原さおり・しおり、
   ケント・フリック〜万博公園太陽の広場より
  『鶴瓶とヤングアイドルスーパーバラエティー」
   笑福亭鶴瓶、東ちづる
   CHA-CHA、ホワイトタイガース、星野由紀、新田恵利
   松本伊代、阿部寛、泉アツノ〜万博ホールより
  『圭・修BIKKURI SHOW』
   清水圭・和泉修 ほか
  『オール吉本!紅白対抗トンでも近代五種』
   紅組…今いくよ・くるよ、上方よしお、里見まさと
    佐藤武志、桂小枝、桂小つぶ、まるむし商店東村、非常階段、
    ちゃらんぽらん富好、岡ゆう太、きびのだんご、ジミー大西、
    ピンクダックレイコ、東野幸治、ヤンキースタツヤ、130R板尾、
    オールディーズ栃野、ボブキャッツ雄大、リットン調査団水野、
    ぜんじろう、ミモファルス、石田靖、亀山房代、松下明美 
   白組…オール阪神・巨人、宮川大助・花子
    平川幸雄、松本竜助、桂文福、何人トリオ、ハイヒール、桂花枝、
    まるむし商店磯部、ちゃんぽらん大西、岡けん太、太平かつみ、
    ピンクダックミチ、今田耕司、桂楽珍、ヤンキースセイキ、月亭かなめ、
    130R蔵野、オールディーズ木村、リットン調査団藤原、桂きん太郎、
    ボブキャッツヒロ、メンバメイココ
   解説…月亭八方、実況…杉本清(関西テレビ)
     ※会場に、「明石家さんまが来る」という振れ込みが立ち、
       それに乗せられてわざわざ見に行くもやはり会場は超満員。
       その噂にまんまとダマされた、観衆のブーイングたるや…。
       今にしておもえば、これがホンマの「さんまのまんま」…か(ヘタ)
                       (1988年4月16日放送)

関西テレビ
 
 ▽襲名スペシャル さよならべかこ・こんにちは南光
  司会・円広志、黒田福美
  桂べかこ改メ三代目桂南光、桂米朝、桂枝雀、岡部まり、
  桂雀松、桂む雀、桂こごろう
  VTR…挨拶回り/五代目桂文枝、笑福亭仁鶴、岡本隆子、
      大阪・桜橋〜サンケイホール/夢路いとし・喜味こいし、桂春団治、
       笑福亭松之助、小松左京、桂米之助、上沼恵美子、
      東京日比谷〜芸術座・東宝名人会/橘右近、
       口上…五代目柳家小さん、桂小南
      メッセージ/上岡龍太郎、桂ざこば、桂春若、笑福亭松枝、
       笑福亭松葉、笑福亭鶴瓶、河島英五、ゴンチチ、マッハ文朱、
       イルカ、藤山直美、美輪明宏
      落語…「ちりとてちん」(サンケイホールにて収録)
                       (1993年12月放送)

 ▽たかじん胸いっぱいスペシャル
  「結婚すれば男はこうも変わるか?」
  上沼恵美子、薬丸裕英、高杢禎彦、
  木原美知子、杉本彩、早坂好恵(放送年月日不明)

 ▽'90爆笑!!ビッグ3
  桂文珍、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ(1990年1月1日放送)
 
 ▽第29回上方漫才大賞
  大賞……横山たかし・ひろし
  奨励賞…酒井くにお・とおる
  新人賞…千原兄弟
  新人奨励賞…ますだおかだ
  審査員特別賞…横山ホットブラザーズ
  ゲスト・浜村淳、藤山直美、京唄子、さがみ三太・良太、逢坂じゅん、海原小浜
  司会・水谷ひろし、原田年晴(ラジオ大阪)(1995年5月3日放送)

 ▽藤山直美・リリアンの世にも奇妙な!台湾珍道中(1997年5月24日放送)
 今週の頭あたりから続々と写真入りの封書やらメールやら到着。私めも寄せてもらっている某協会(宗教と違いますョ 笑)の会員名簿、その改訂版として写真の代わりに似顔絵を載せようという趣向。もう今から5年ぐらい前に初版を作成し、2年ごとの改訂で、今回が3版目。初版以来書かせてもらう似顔絵も、自分で言うのも何ですが、回を増すごとに、進歩しているようにも思える…と、誰も言うてくれないので自分で言う(笑)。

 とにかく、初版の出来は今見ると恥かしいぐらいの出来で、いつか改訂出来る機会があれば全部直させてほしいとお願いしたら、それが叶った格好。6月中ごろ完成を目途に、各協会員より今月いっぱいまで写真を郵送していただくように今月頭からお願い中。ノルマは約30名分。末ごろは似顔絵だらけでバタバタするぞと気合が入ろうもんの、28日今日現在で届いた写真がたったの3通…。拍子抜けもエエとこだっせ!

 5月を過ぎて6月頭、ひょっとして駆け込み郵送となるのか。だとしたら1週間で仕上げなければならない。いくらこっちがヒマしてるとはいえ、ナンボなんでも…である。人の都合も考えやがらんと!…と声を大にして叫びたいが、この協会員。協会という団体に所属しながらも、全員個人のフリーランス。いくら仕事はキッチリ〆切区切られて暮らす身とはいえ、いざとなったら、まったくバラバラのまとまりなし(笑)。まさかのトバッチリを、これまたフリーランスなこっちが請け負うのかと思えば、出来あがりも含めて、もうどないなることやら。今月から来月は、おののきの月またぎになりそう…。

 フリーランスといえば、先日の某フリーアナの訃報。まったくもって惜しい限りである。が、しかし、何ぼナンデモ…、である。連日の報道を眺めながら、事の起こりに半ば憤りのようなものを感じずにはいられないが、これとて所詮は今となっては、である。何があったか知らないし、また、知ろうとも思わない。けれども何かがあったからこうなったのだろう。その予兆のようなものが、ブログにも記され、事の後に拝見させてもらうと、何と多くの励ましやなぐさめのコメントの数々。結局、彼女にとっては何の励ましにもプラスにもならなかったと思えば、あまりにも虚しい多くの声である。それを幸せだと思える、または実感として噛み締める、余裕すら無いほど、そんなに追い詰められていたのか。
 あれだけの美貌も誇り、ましてや仕事ぶりも周囲から評価されていたそうだ。ならば一人や二人、相談相手もいたろうに…とは至極普遍な感想であるが、一方で、フリーアナという不退転な道を歩むがゆえに、「すべては自分で何とかしなければ」という責任感というか重圧が、ああいう結末を迎えてしまったのかもしれない。だとすれば、憚りながら同じフリーランスにある身としては、理解出来なくも無い。…が、しかしである…と、この繰り返しが延々と続く。

 誰が言ったか、「自由というほど、不自由なものはない」。今になって十分身に沁みる言葉がその都度に過る。

 事前と事後の、あまりにも埋めようのない、現実という名の溝、その広さ深さ、そして痛ましさ。特別彼女のファンということもないのだが、それでも、何故かしら我が事のように心が痛み、また意味のないイライラも募る日々である。
 今月いっぱいで閉館の道頓堀・B1角座で行われる最後の落語会は「六瓶の会」。当初は前回2月の会で角座では最後の振れ込みも、出演者皆さんのスケジュールの都合が叶い滑り込みで、今回の開催。また、同所開場以来スタートした会は、出演者持ちまわりでトリを務めるが一応のルールだそうで、前回で最後となっていれば、5本目、6人いる分、一人あぶれてしまうはずも今回の開催、笑福亭瓶成さんのトリをもって、一応一巡も出来た。何はともあれ、いずれも上手い具合に納まった。
 
 というわけで、当日のプログラムと私的雑感などなど。

●「道具屋」笑福亭銀瓶

●「青菜」 笑福亭瓶生

●「狸賽」 笑福亭由瓶

●「親子酒」笑福亭瓶吾

  〜仲入〜

●「四人癖」笑福亭鉄瓶

●「愛宕山」笑福亭瓶成
(敬称略)

 トップを飾るは、この落語会の主催者、笑福亭銀瓶さん。この5月までは東京、それにソウルで公演されたお芝居「焼肉ドラゴン」にご出演。特にソウルは、日本生まれなので正確には故郷と呼べるのか否かはさておき、銀瓶さんにとってはルーツの地。伺えば、公演中の5月25日は、師匠の笑福亭鶴瓶師による「銀瓶」命名からちょうど20年という日で、ルーツの地で記念日を迎えられたことにご当人のブログでは感激されておられた。そんな芸歴20年目と、芝居公演無事の成功を背負った凱旋の高座は枕からフルスロットル。「道具屋」というスタンダードな演目も、細かいくすぐりや言いまわしを変えながら、銀瓶流アレンジが加えられていたのが印象的。

 そろそろこの演目の季節です、「青菜」笑福亭瓶生さん。以前の「無学」の会であったか、瓶生さん演じる、「おかみさん」は何とも絶妙。今回の「青菜」でも如何なくその演技力、発揮でございました。

 続くは、笑福亭一門の「親指顔」(笑)、笑福亭由瓶さん。飲む打つ買うの、打つのバクチは落語家になったがバクチのようなもの。買うの色事関係はさておいて(笑)、もっぱら飲む専門の自称イケメン(笑)は日常、ジーンズにTシャツのイケメンな格好で(笑)、自宅から最寄駅までスクーター移動、駅前駐輪場を利用するのだそうだ。駐輪場では、守衛さんに、「一体、何の仕事してはんねやろ?」といつも穿られていたそうな。サラリーマンと違い芸人は不定時のもので、ある日にとうとう、守衛さんより直接、尋問されたのだとか。そのまま正直に答えれば良いものの、いちいち「鶴瓶の弟子で…」云々とやれば、「サインが欲しい」などと付きまとわれるかもしれないと思い、曖昧に答えていたそうだ。しかし、先日の春のお彼岸、落語会の仕事へ通う際、会の主催者から「会場が狭いので、着替える場所がないから、自宅からお着物で来てもらえますか」。仕方が無いので、着物姿でスクーター、駐輪場へ向かうと守衛さん、

「ああ、お宅の商売…お坊さん!」(笑)

 お彼岸でスクーターで着物姿と来ればなるほど(笑)。この話だけでも可笑しいのに、このくだりを喋る直前、何を思い出したか由瓶さん、

「お彼岸の落語会…あっ、(舞台袖にいる)Nくん、ゴメン!」

 Nくんとは、鶴瓶一門統括の松竹芸能マネジャー。なぜ彼に謝ったかといえば、その日の落語会が会社を通さない、いわゆる直の営業であったため(笑)。枕で笑いが欲しいためにうっかり、自ら『悪行』、バラしてしまったからたまらない(笑)。
 そんな人柄が、「狸賽」、サイコロに化ける狸のターちゃんと主人公のバクチ打ちのやりとりも可愛らしく演じられて、何よりも子供にウケていたのが印象的。私めの後ろに座っていた小学生の女の子にはことのほか、好評だったのか、プログラムに書かれた演目の「狸賽」にしっかりルビまでメモって、「タヌキサイ」…。ホンマは「タヌサイ」と読みます(笑)。けれども、当夜の演目が末永くインプットされて、いつかまた別の人で聴いたときに、「あ、あのときの!」と思い出してくれたら素敵なのになと。

 子供にでも十分通用する落語。分からないと毛嫌いするほうが、オカシイわ(笑)

 笑福亭瓶吾さん、「親子酒」。酔っ払い芸がこんなにハマる方をは思わなかった。おとっつぁんの酔っ払い方と、息子の酔い方。特に重点的に描かれる息子のパートは、童顔の瓶吾さんをして、その放蕩ぶりというか、甘えっこぶりが愛らしく、好印象。途中で「だ、だれや!」を凄むくだりは、六代目笑福亭松鶴師が憑依…か?。声の調子もまろやかに響いていたのが印象的。

 お仲入りを挟んで、笑福亭鉄瓶さん、「四人癖」。今月聴いた「無学」での「竹の水仙」に惚れ惚れした、その期待を裏切らない出来映え。色んな癖を持った人間の、その所作の使い分けもメリハリが利いており、まさに「よぉ〜、やった!」

 さぁ、この鉄瓶さんに続いて、いよいよトリは、念願の笑福亭瓶成さん。演目は、会場でプログラムを受け取る以前、つまり事前の、銀瓶さんのブログなどで発表済みも、トリの瓶成さんは「おたのしみ」。つまり、当日になってみないと分からない。で、プログラムを受け取ってみると、何とそこには「愛宕山」!。大ネタである。前回の「六瓶の会」での出来に圧倒され、思わず、普段は滅多に書かないアンケートにも「今夜の秀逸、瓶成さん」と記したほど。なので今回の期待と、加えて「愛宕山」、大いに膨らむところの、早速感想を言ってみれば、それはもう、「ちょっと、スゴイ現場を目撃してしまった」というか、大げさではなく、この「愛宕山」の熱演は感動的でした。

 大阪のお旦をしくじった、ミナミの幇間、一八繁八が京のお旦に乞われてお座敷は、何と愛宕山への今でいうハイキング。ところが、今はあまり聴かれなくなった「東京VS大阪」にも似た対立の、この当時は「大阪VS京都」で、さぁ、ここに幇間ながら、大阪人の意地で京都人の旦那に反発しながら、もちろん、気分を解しながら。馬鹿にされつつも負けじと毒づきながらと、不思議な構図で山登り…。言うなれば、幇間の、特に繁八のヒネクレ具合に、それでいて憎めない性格が見せ所。しかも「苦手な体力勝負」の山登り、という舞台設定。この見せ所がどう絡むのか、今度は演者さんの「演じ所」でもある。これをなかなか克服出来ないと、本来の若手はもがくところ。ましてや大御所も然り。この演目が大ネタと称される所以である。しかも、瓶成さんの大師匠にあたる六代目松鶴師の十八番でもあったのだから,余計のプレッシャーだったに違いない。

 当夜は黒紋付、袴の正装。意気込みが十二分に伝わってくる。大師匠への挑戦でもあり、観客との勝負である。淀みないながらも、随所に色んな言い回しやくすぐりのアレンジが挿入され、工夫の跡が存分に垣間見られる。とにかく、繁八の山登りのごとく、サゲという頂上へ向う奮闘が、噴出す汗、くずれる着物…。いかに熱演であったか推測していただきたいのは、終演直後の瓶成さん、開口一番…

ホンマ、汗で溺れ死ぬか思いましたワ!」(笑)

 随所で笑わせてもらいながら、繁八の奮迅と、鉄瓶さんのそれが見事に重なって行き、途中から何やら胸が熱くなってしまい、首尾良くサゲに辿り着いたときには会場からも惜しみない拍手、鳴り止まず…。何かスゴイ現場を目撃してしまったな、である。間違いなく落語界、将来、きっと何かが起こりますよ、これは!

 「六瓶の会」、無事の一巡を堪能させてもらった。本来なら12回の開催予定も、角座閉館をもって、会自体も発展的解消されるようだ。全6回、通えなかったのが今になっては、惜しいことをした。
 
 平日開催ながらも、客席はほぼ満席。ああして観ると、いささかバランスの悪かった客席ながらも、落語会に限ってはそこら辺りが気にならない、何とも適した会場だったのだなと改めて。
 集客率もあるのに、角座ビル自体の老朽化なのだから、どこへ当たりようもない。落語会開催に限って言えば、今月限りの角座閉館、重ね重ね手痛い限りである。
yasukei 時代もぐんと若返って…といっても今からもう28年の前になる漫才ブームに活躍された、春やすこ・けいこさん。
 あのブームはツービート星セント・ルイス、それに大阪から移籍組のB&Bを除けばほとんどが横山やすし・西川きよしを筆頭とした関西勢、しかもオール吉本陣。なので、子供ながらに、やすこ・けいこさん、「へぇ、吉本にもこんなコンビがねぇ」とその矢先で見たのが、テレビの「道頓堀アワー」(朝日放送)。土曜お昼の角座からの寄席中継。「なんや、松竹かいな!」

 ザ・ぼんち島田紳助・松本竜介西川のりお・上方よしおオール阪神・巨人今いくよ・くるよ…数多の吉本勢にまじっても、何ら遜色がないというか、とにかく当時の松竹勢は子供心に「何か古めかしい」印象でしかなかったので(笑)、その事実を知った途端に、印象が覆されたのを思い出す。ということは、関西ローカルでの番組よりも先に、「THE MANZAI」(フジテレビ)あたりの全国ネットで初めて見た漫才コンビだったともいえる。

 それにしても怒涛の、まさに「悪口漫才」の極み(笑)。あんなに芸能人やアイドルを、しかも何ら工夫も施さず(笑)、ストレートに斬りまくった漫才は前代未聞の、後にも先にも唯一無二。ようもまぁ、訴訟沙汰にならんかったもんやと、変に感心をしてしまうものの、改めて思い返せば、若い二人の、しかもやすこさんは当時18〜19歳。平均年齢20代前半の「女の子コンビ」の無鉄砲な無邪気さがある意味、世間に許容されたのでしょう。当時の漫才番組、「言っちゃえ言っちゃえ!」と客席から煽りもあがるほど。世の中の、レベルはともかく、はびこる虚像という虚像を何とかしてひん剥いてくれる、その代弁者のような眼差しで、ツービートであり紳竜であり、やすこ・けいこ…見ていたのでしょう。

 「THE MANZAI」に始まって、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)と全国区に上り詰めるなかで、関西ローカルのいわゆる寄席番組から疎遠になっていたような印象で、角座、というイメージも薄いなぁ…と思い返せば、そうそう、角座から中継番組の、しかも寄席ではなく、松竹勢には珍しいコントバラエティにお二人は出演されていた。土曜お昼放送の「つっぱり大貴族」(読売テレビ)という番組。

 春やすこ・けいこ、レツゴー三匹笑福亭鶴光笑福亭福笑笑福亭鶴志桂小春団治(当時・桂小春)、北野誠(当時・MAKOTO)、四コマ漫才のパート2に、そうそう、俳優の佐藤蛾次郎…などなど。

 ♪つっつっつっつっぱり!(つぅ〜っぱりサ!)…オレたちゃつっぱり大貴族!

 アコースティックなブルース調のテーマ曲。誰が歌てたんやろう。覚えてる人いてますやろか?(笑)

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hawaiishin♪これは素敵なチョイとイカす
 一節聴いたらドンピシャリ
 勇気出る出る、力出る出る、
 歌も出る〜
 何がなんでも、このコンビ〜
 忘れちゃならない、ハワイ・伸〜
 歌いましょ、踊りましょ、
 アアンアアンアン〜〜
 笑いましょ、始めましょう〜


 ミスハワイ・暁伸のご両人。とにかくハワイ師が亡くなる最後まで売れ続けたコンビだったと思う。コンビの晩年も、しっかり風邪薬のコマーシャルまで「ア〜イ〜ヤ〜」が採用されて、その当時の浪花座での高座では必ずそのことも嬉しそうにネタにされていたのが記憶に残るところ。

 あのころの花月も然りで、角座〜浪花座も一回の興行は3時間以上たっぷりあって、昼に始まった興行が終わるのが大体昼の3時過ぎ。約30分ぐらいの入れ替え時間を経て夕方の部に移る。が、入れ替え時間といっても、時間があれば昼から夕方までぶっ通しで見られた。学生のころひまだったのでやはりぶっ通しで入り浸ったある日の浪花座の、ハワイ・伸師は昼の部のトリから約3時間後の夜の部のトリへ。昼は割かし団体客で賑わう反面、夕方の部は比べて閑散とした客席ながら、ご両人、熱が入っていたのが夕方の舞台。寂しい客席を何とか盛り上げようと奮闘の舞台は、舞台の端から端までハワイ師が歌い踊り、伸師の自慢ののどで魅了する、それはそれはのハッスルぶりで芸人魂。

 ただ、あまりにハッスルしすぎて、ハワイ師の化粧、睫毛や頬紅が段々と汗で落ちていく様を、客席の最前列、桟敷席からまざまざと拝見しまい、あとあとまでちょっとした、トラウマにもなった(笑)。まぁ、それぐらいまで晩年まで力いっぱいの名コンビだった、とここでは述べたかった…が、それにしてもホンマ、スゴイお顔の、あ、寝ぐらへ急ぐダンプカー〜♪…であった(笑)。
 古典落語も春は「貧乏花見」、「野崎詣り」、夏は「青菜」、それに「皿屋敷」などの怪談もの、冬は暮に「芝浜」、正月が「初天神」…などなど、四季折々の作品数あれど、秋がなかなか見つからない。もちろん調べりゃアレもコレも見つかるのやろけど、肝心のテープやらビデオが見つからない…と、何をバタバタ調べることあるかと申しますと、先日から頼まれごと、「四季の落語画」なる宿題。とりあえず8作を目途の、まず春夏秋冬4作を仕上げなければと躍起も躍起で、とりあえず、春、夏、冬が出来て、残り秋ですわ。コレ、春、夏、秋と来れば、ちょうど「ちゃっきり娘」なんですが…(そこの演芸マニア…よっ、ご明察! 笑)。

 なので、朝からインターネットを調べる、本屋を回る、演目探し当てる、テープやビデオが無いかと部屋のビデオラック引っくり返すも見つからんで、またまたネットでどこぞのファンの方がまとめてるページがないか探す、また、見つからん…。端から見ればアホらしもない、そんな繰り返しの今週は、トゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャトゥリャリャ〜な一週間…。情けない!

 一方で昼過ぎより、天王寺から新世界へ。映画「悪名十八番」「河内カルメン」の今東光2本立てをキメようと勇んで出掛けるも、何と、上映はこないだの金曜日で終わってたんやと!。さる情報誌で調べてみると、確か上映中だったはずなのに、改めて通天閣そばのコンビニで立ち読み、調べてみると、あ〜あ、一段下のを読んでいた!。一段下のがそうそう、上映中のポスターもあり、その上に書いてある「悪名〜」はやっぱり、先週マデ…。せっかく、先週水曜にKBS京都で放送されていた「続・悪名」でテンションが上がっていた矢先の、しかも「河内カルメン」、主演の野川由美子さんの姿を昨夜の「裸の大将・宮崎の鬼が笑うので」(フジテレビ/2008年5月24日)でお見かけして、さぁと気合も入ったところの…あ〜、ナサケナイ!。仕方がないので、そばの立ち食いうどん、ちょっぴり塩味の腹ごしらえでナンバまで徒歩。

 相変わらずナンバ。日曜日に行くもんと違います(笑)。仰山の人出です。大阪弁はもちろんのこと、中国語やら韓国語やらタガログ語やらアジア言葉が飛び交っております。よくよく訊いてみれば、「ああ外国語」ってなもんですが、さら〜っと流して聴くと、これが大阪弁とサッパリ見当つき難い。世界の国からこんにちは。ワシャ、この日はナンバに新世界からこんにちは…(あんまり上手くない…)

 そんなアジアのるつぼに飲み込まれていたなかで、不思議というか仰天というか驚愕というか。前方から歩いて来るのは、ああ、何と、高校時代の同級生!。どちらともなく思わず「おぉ〜!」。いっぺんにタイムスリップ…も、いっぺんに現実に引き戻される。何せ先方は、奥さん子供と家族連れ。ああ、慎ましくもまた幸せな家庭をしっかり築かれており慶賀の至り。それを思うと嗚呼…。アカンアカン。昔から親にも言われた。余所は余所、ウチはウチ…にしても…。
 卓球の福原愛ちゃんが封印したと言われてる、その分叫びたいわ、

 「何やねん、コノ、差ァ〜!!」(笑)

 サァ〜!…イナラ〜と、サァ〜ッ!と別れてサァ〜ッパリ、ワヤやわさァ〜ッ!(何のこっちゃ)。

 みみちい買物をすませて、時刻は夕方6時。そういえば…と帰り道、上本町にて河内家菊水丸社中、河内音頭見学…のつもりも、その道中で見つけた、新しく出来た古本屋(て、新しいねや古いねやヤヤコシイな)。古本屋というより古書店のようで、思わず店内に立ち寄ると、まぁ、古い映画のポスターやらブロマイドやら劇場パンフレットやら、垂涎のお宝、う〜ん、山!山!ヤマ〜アラシ!…ウソや〜ん!(大空テント師『人間パチンコ風)。いや、ウソやない誠に貴重な古書店なり。価格500円、1969(昭和44)年の梅田コマ劇場喜劇公演のパンフレットを購入の、まぁ、いとこい先生の若いこと!(笑)。めっけもんであった。時間を忘れてウロウロしてるうちに、盆踊り会場にやれやれ到着出来たと思ったら…

 ♪ちょうど時間となりました〜

 テントさんではないが、思わず「ウソや〜ん!」(笑)。

 河内八尾の朝吉にも河内のカルメンにも、それに河内音頭にまでフラれてしまった一日…。映画動揺、下調べなしの行き当たりばったりがマズかった。ばったりよりもう、グッタリである。思わず誰かに身を寄せたいとフラフラになっていたら、前方より、この春まで菊水丸師の現場スケジュールをサポートされていた名マネジャー・S女史、またの名を「永遠のJガール」さん。まさか本当に身を寄せるわけにも行かないものの(笑)、社内の配置換えで櫓でお目にかかることは少ないと思われていたので、早速のお出ましに、オロロイた(驚いた…平和ラッパ風に発音ください、意味はありませんが 笑)。そんなことよりも、早速、お礼のご挨拶せなばならいことありけりで、実はJガールさんのプライベートブログにて、何と拙ブログを過分なまでのご高配、ご紹介賜わり、おかげでその日のアクセス数もグンと跳ね上がったので。恐悦至極のありがたき幸せである。早速、お礼申し上げるも、とっちらかったりまとまらなかったりで、まともな言葉が出て来ず、ひたすらニヤニヤしていたように思います(今回に限らず、最近、黙々作業が増えたのか、誰彼なく人前で思うように言葉が出てこなくなっている。実に、ヤバイしィ… あ〜い〜や〜…そら、ハワイ伸 笑)。

 Jガールさんにも思ったよりも早くお目にかかれて個人的には良かった良かった。菊水丸師に石田雄一先生、それに今年よりサポートの三条史郎師匠の和太鼓…聴けなかったけど、それも櫓の本格シーズンまでお預けでまぁ、エエとしよう。改めて御礼申し上げます。

 ではここで、S女史のプライベートブログ「永遠のJガール」もご紹介。拙ブログ、ご紹介のお返し…というよりも、数々のヘタな文章が世間に露にされてしまった、仕返しでもある(笑)。というて、これが仕返しにどうもならない。なぜなら、綴られるその文章は、実に大人の名文、数々である。「綴られる」という言葉がとにかく似合う。それに引き換え、当方の雑文は…「綴る」というより、縫い這うというか、縫うても「ほころび」まくりのツギハギだらけ。ああ、大宅壮一ノンフィクション大賞が遠い…(どこ狙とんねん! 笑)。
 とにかく旅にグルメにファッションに、そして、吉本興業マネジャー残酷物語…やなかった、いや、ま、そんなご多忙な裏側も満載です(笑)。
 
 それにしても、ああ、大々的に紹介してしまった。もちろん拙ブログもこれ以上の扱いで紹介してもらったので。と言うて、そのお返しにもなっていませんが。というよりも本当はこっそりひっそりご紹介したかった。

 なぜなら、素晴らしい名文、拝読させてもらう毎日の楽しみ。あまり他人には取られたくないので(笑)。
 なのでURLは載せません。ただし拙文中どこかにリンクを貼っておきますので、お探しのうえ、ご覧ください…ま、スグ見つかると思いますが(笑)。

 それはそうと秋の落語。あ、「まめだ」があったな!。よし。明日はこれを画に仕上げる予定。
ryuryu 恐らく、テレビなどでリアルタイムで見た、最古キャリアの漫才コンビではなかったかと、「上方柳次・柳太」のご両人。特に上方柳次師の「逢いたかったよォ〜!」「びびんちょ!」「しゃあさかいに!」といったフレーズは何となく、「道頓堀アワー」(朝日放送)「お笑いネットワーク」(読売テレビ)などで見ていて覚えている。上方柳太師のあの独特の容姿ととともに。子供のころ見ていたので、もうかなりの年齢かと思われていた柳太師であったが、後に、亡くなった享年(1979年)を知ると、49歳と、驚くべき若さであったと知った。

 そんな相方を失った柳次は、やはり相方に先立たれ片翼飛行状態にあった若井けんじ師と新コンビを結成されるが、このコンビの記憶は残念ながら無い。
 若井けんじ師がかつて兄弟コンビとして輝いていた「若井はんじ・けんじ」と、この柳次・柳太コンビはほぼ同期で、お互いしゃべくり漫才の新時代を開拓していったライバルであった。いわばこのライバルの片割れ同士がタッグを組むことになるのだが、「お互いがツッコミ同士であった」のが、後に敗因として語られているように、あまり長続きしなかったようだ。それと、新コンビ結成が、ちょうど1980(昭和55)年代の漫才ブーム真っ只中ということもあり、時代の先頭を突っ走る若手の勢いには、さしても熟練同士とはいえ、太刀打ちするには遠い位置にあったことも、その一因といえるかもしれない。

 後にこの「柳次・けんじ」の漫才をビデオで見た。オーソドックスなスーツ姿のけんじ師に対し、何とか若い観客を引きつけようと、皮ジャン姿でイメチェンを図る柳次師の姿があった。ところが、やはり肝心の漫才となると、そのファッションに内容が伴わない。というか無理があるようにも思った。コンビ敗因といわれたツッコミ同士の漫才。しかし、「びびんちょ!」などの奇妙なフレーズで一世を風靡した柳次師がボケ役で善戦し、さしてのギクシャクさは感じられなかったものの、やっぱり若いネタで無理矢理奮戦してる分、気の毒にも思われた。80年代のビデオであったと思う。「お笑いネットワーク」(読売テレビ)である。とにかくあの時代は、どのコンビもが「ナウでヤング」を目指した時代で、結局このコンビもその流れに乗ってしまう…が、である。けれどもそんな時代ながらも、「中田ダイマル・ラケット」や「人生幸朗・生恵幸子」の御大はオーソドックスな立場で好位置にも付けており、テレビでも売れていた。

 ここで、「柳次・けんじ」も若手の勢いに流されず、地に足ついたネタで勝負があれば…とも思うが、「ダイラケ」「人生」の御大に比べて、共に50代の中堅世代。惜しいかな、中途半端であったといえる。結局、このコンビは解消されて、後に柳次師は、奥さんを連れて「上方柳次・一枝」として活動に入られる。この上方一枝師というのが、柳次師とは正反対のチャキチャキ、江戸っ子でそのコントラストが、松竹勢、場所を移した浪花座を中心に繰り広げられた。しばらく主婦業に納まりながらの、あの話術。確か東京漫才の「あした順子・ひろし」の、あした順子師と姉妹で、元々漫才師であったと後に聴いた事がある(間違ってたらスミマセン)。

 このころは50代後半から60代という時期か。ほどよく年齢と重なりながら、ほのぼのとした夫婦漫才をよく劇場でも見せてもらった。

 現在、「上方」の屋号を守るのは、お弟子さんの「西川のりお・上方よしお」上方よしお師のみである。ただ、若かりしころ中田カウス師が一時期のお弟子さんで付かれていたとも伺ったことがある。どのぐらいの時期なのか確かではないが、それでも一時は師事されただけあるその影響というか、カウス師の中田ボタン師をおちょくるような口調や言いまわしは、妙に上方柳次師のクールさを彷彿とされるものがある。

 落語と比べ、芸のDNAは薄いとされる漫才ながらも、やはり根底にはしっかりした芸の血が流れている。
suteharu 角座を飾った名人スペシャル、第3回は「砂川捨丸・中村春代」のご両人。捨丸師が1971(昭和46)年に引退されるまで、少なくとも大阪万博前後までは、「横山やすし・西川きよし」を筆頭に、角座でいえば「レツゴー三匹」「正司敏江・玲児」といった気鋭のしゃべくり漫才に混じって、大看板、いにしえの漫才ならぬ「万歳芸」が存在していたのである。

 今に至る漫才の源流は、諸説さまざまあれど、二種類の形態が源流といわれている。

 各地村村へと出歩き、五穀豊穣やら大漁祈願、またその結果のお祝いを兼ねて、農家や漁家の玄関先にて景気づける、三味線に鼓、太鼓を楽器を遣ったにぎやかしであった表記も「万歳」、いわゆる門付けの大道芸である。もう一方は芝居一座に属する若手や噺家の余芸である「軽口」と呼ばれる芸で、今風にいえばコント。しかも「俄」と呼ばれるアドリブのお芝居にあり、これらは大道芸というよりも、いち早く寄席や演芸場の屋内で演じられたそうだ。この寄席や演芸場というのも、落語中心であった当時の寄席を一番館とするなら、それ以外のいわゆる色物勢がまとまって出演する、やや格落ちの二番館的寄席であり、格落ちの分、さまざまな芸や芸人が食い入る余地があった。この余地に、浪花節(浪曲)やら音頭系の類の芸が合流する。やがて、師弟関係やら芸の異種交流など、玉石混交の過程を経て、「万歳」系統の芸が今でいえば、音曲漫才、ボーイズ…いわゆる「横山ホットブラザーズ」である。一方の「軽口」は、アドリブコントから転じて、1930(昭和5)年「横山エンタツ・花菱アチャコ」結成を元祖とする、楽器を持たない「しゃべくり漫才」の歴史である。さらに「俄」はコントの類にある安めの衣裳やカツラを本格的なものへ改め、演じる内容もぐっと芝居かかったものに発展し、後の「松竹新喜劇」「吉本新喜劇」へと繋がっていく。

 伝統的に変わらぬ落語と、新興の演芸である漫才や、それに新喜劇、コメディ、さらにそれらを中継するラジオやテレビの放送の時代にも、この「捨丸・春代」は奇跡の生き残りぶりを見せ、曰く「漫才の骨董品」
 後にビデオで見た漫才は、なるほど、若手をも凌ぎを削る分、それなりの、といえば失礼か。それでも何とか、時代を捉えようと、当時人気の「トニー谷」「あなたのお名前なんてぇの?」といったフレーズをごく自然と取り入れていたのはその気概に目を見張らせる物があった。

 戦前からの名コンビ、その威厳から「師匠」というよりも若手からは「先生」と呼ばれていたそうだが、戦後派の後輩には寛容に親しまれていたようだ。後に、テレビ番組で「海原お浜・小浜」海原小浜師が、「春代師匠の頭はカツラでね、楽屋の鏡前に置いてあるのを見て私ら、いつも『ああ、アンパンや、アンパンや!』(笑)」とも語っておられた。

 戦前からの活躍、「捨丸・春代」のご両人。やはり戦中の混乱は否めなかったようで、戦後約10年までは活動も閑散としたものだったそうだ。ただ、捨丸師は戦前来、借家収入で生活自体は安定していたそうである。しかし終戦後のインフラで、いわゆるバブルも弾けてしまった。そんな時代を色々世話していたのが、「砂川菊丸」というお弟子さんであった。この弟子の厚意に気を良くした捨丸師、

「よし、二代目捨丸をお前に継がせて、ワシはもう引退する」

 早速、二代目襲名と、戦前の大名人の引退興行が執り行われ、盛大な花道を飾るはずも、あまりに盛大な観客からの反応と、しゃべくり漫才全盛における、古典万歳の復活が大いにウケて、結局この引退は撤回されてしまう。さてとそこで残された「二代目捨丸」問題。襲名が先送りにされるかと思いきや、

「いくら弟子とはいえ、今さら元の名前に戻れますかいな」

 結局、初代と菊丸改メ二代目が並行しながら「捨丸」は存在したそうである。のどかな時代だ。華やかな復活劇を果たし、若手らとの共存共栄ぶりが重宝された初代のその一方で、二代目はその影に完全に隠れてしまった。そんな二代目の映像は、「新日本紀行」『浪華芸人横丁』(NHK/1971年4月5日放送)として現存している。

 初代の影に隠れながらも、西成区の自宅でひたすら鼓の稽古に励む二代目捨丸の姿がある。

 のどかであるが、ある種の残酷さを生々しく背負ったのが、角座を初めとする当時の演芸場事情である。
sanbiki 今や松竹芸能の看板を背負うトリオの雄が「安田大サーカス」。相変わらずマンガっぽい風貌で奮闘のベタベッタ!。付けも付けたりチーム名、まさにサーカス色濃厚である。

 対して、昭和の松竹芸能、しゃべくりトリオ漫才の看板を一身に背負ってこられたのかが「レツゴー三匹」の皆さん。「こられた」と過去形はもちろん解散されたのではなく、このごろは単独活動が目立ってしまっているのでこうなる次第…惜しい、勿体無い限りである。

 3人のマンガっぽさの元祖でもあった。キューピー顔のじゅん師、そのボケに翻弄されひたすら怒鳴りまくるリーダーの正児師。それらのやりとりを傍観でただただ大笑いの長作師。このコントラストだけでもう、一時代の演芸番組、花形であり画になった。もっとも目を引きやすい正児・じゅん両師の掛け合いの、その隙を見て三橋美智也(を初めとする演歌)を唸る長作師…定番で、お気に入りのスタイルである。特に子供ながら、この長作師。特に「長作師といえば、演歌」というスタイルが刷り込まれていて、実際にも天童よしみさんと競作した「道頓堀人情」はヒットチャートにも踊り出た。それぐらいに定評のコブシで、ここ数年も三味線漫談としてピン高座で舞台に立たれている。それぐらい、もう「和」なイメージである長作師であるが、CSで放送された、約30年前の「お笑いネットワーク」(読売テレビ)を見返してみると、何と、ジャズやハワイアンまでも唸っておられた…(唸る、言うのか? 笑)。
 
 最近(当時)は海外旅行がブーム。舞台は旅行店、客の正児師が旅をしたいので、リクエストする旅先の雰囲気を教えてくれという要求に、社員(店員)のじゅん・長作師が翻弄され奮闘する、といったネタである。

 アメリカに行きたいのでと、その雰囲気を伝えるべく、じゅん師と共にあのサッチモ(ルイ・アームストロング)の「聖者の行進」を歌い上げる。ハワイに行きたいというので、同じく「アロハオエ」も踊ってみせる。その合間、ピザの斜塔が見たいと、やっぱり歌…ではなく、今度は長作師がじゅん師を肩車させて、「斜塔ということは傾いてなイカンやないか」と、ムチャな要求で肩車のバランスを崩させるなどなど体力ネタも挟まりながら、とにもかくにもこの歌の部分が、カッコ良かったことをふと思い出した。子供のころに気付かなかった、音楽ネタの楽しさも含めて。
 確か、ビデオにも収めたはずだが、これまた散逸してしまってること情けないが。

 レツゴー三匹といえば、目立つ、正児・じゅん師となるところ、何の何のの長作師。あのショートアフロ(?)でヒゲで、それでいて長身な佇まい。「和」というよりも「ブラック」である。三味線漫談も含めて、どこかでET−KINGあたりの若いミュージシャンが、その雰囲気と芸を若いお客さんの前へ、上手い具合に引っ張ってはくれないものかと望むところである。

 それはさておいても、お三人の漫才である。もういつのころから見ていないか。最後にナマで観たのは、確か「浪花座」閉館のときであったか。それでももう4〜5年前の話である。

 ♪ハゲと〜ハケとは、どこ違う〜…ハゲは毛がない、ハケ毛ある〜ヨ〜オ〜ホ〜イ、ホイ!

 河内音頭に乗せた替え歌の、無邪気なネタが楽しかった。
 今月末で惜しくも閉館と相成る、道頓堀・角座。集客が劣っていたとはむしろ第一理由ではなく、昼席も好調と聞いていた。第一理由は同演芸場が入居する、角座ビル全体の老朽化によるものというから致し方無い。あのビルもついこの前に建ったと思われていたが、それでも25年にもなるのだという。とはいえ、まだまだ25年ともとれるが、だとしたら、NGKもすでに20年である。まさかとは思うがそれにしても、あっという間の年月である。この角座閉館を持って、かつての檜舞台、「弁天座」「朝日座」「中座」「浪花座」に続いてこれで道頓堀五座すべてが消失してしまう。今後、松竹演芸陣はそのまま、新世界の「通天閣歌謡劇場」(『通天閣地下劇場』へと改称予定)へと引っ越してしまい、場所は確保されたものの、それでも週末に限った興行に留まってしまうそうだ。

 本来なら、この8月に、かつて同ビルにあった映画館を改装して、本格的な角座再興が計画されていたものの、現実は一転…である。

 子供のころからテレビなどでも慣れ親しんだ「角座」への惜別と、再び道頓堀に寄席の灯を、の願いを込めて「角座を飾った名人スペシャル」と、参りましょう。

toshirei その第1回は「正司敏江・玲児」のご両人。もちろん、今も現役の、それでも往時のどつき漫才のインパクトと来たら。そのピークは大阪万博前後だそうだがリアルタイムではない。が、万博過ぎて漫才ブーム以降も、迫力ある高座はまだまだ展開されていた。ことに、ブーム前夜のお正月の角座で観た、敏江師の襦袢も露な太腿は、未だにトラウマにある(笑)。とにかく、ハッスルという言葉が一番似合ったコンビではなかったか。奮闘である。惜しみないのである。夫婦漫才一転、花も嵐も踏み越えた激情の舞台である。そして、魂を売った見返りの果てにあの「爆笑」があった。

 敏江・玲児師。とりわけ敏江師のことを、私めよりやや年上の兄世代、姉世代は未だに「敏江ちゃん」と呼ぶ人がいる。彼らが子供のころのアイドルであったわけだ。果てるほどの山谷越えた今もなお、常に前進大驀進の敏江師の笑顔は、今もずっと「敏江ちゃん」のままである。一方で「女房を見捨てた」で憎まれ役を買ってしまった、玲児師である。現に子供心に、妙に玲児師のギョロリとした目つきもあって、おまけに殴る蹴るのDV漫才…怖かった(笑)。にも関わらず、果敢なまでに挑み続け、応戦一方の敏江ちゃん。最後は何故かヨヨヨと崩れ、「お兄さん、ああ、ウチ、シビレるわ〜」…もうワケが分からない(笑)。

 子供心にワケが分からないのもあるが、大人になった今も「男と女」という意味では未だに腑に落ちんというか、解せんところもあったりするが、もちろんそれらを超越して円熟の今がある。敏江師によると、それらもすべて乗り越えて、「ようやく今、いたわりの漫才」と語っておられた。そういえば、数年前、某局の漫才台本研究会、その検討会の席で演者さんもご出席という席に、一度だけ同席させてもらった。私めは別のコンビを書かせてもらっていたので、直接の関係はなかったのだが、それでも、敏江・玲児師の番になると、自身に託された台本を読み返しては、玲児師、

「この台本では、敏江が生きへんねや」

と絶えず繰り返されていた。その本を読む目は、子供のころにみた以上の鋭い目つき…というよりも真っ黒なサングラスをかけられていたので余計に威圧されてしまったものだが(笑)、反しての口調は、敏江師を常に気遣った、柔らかい物言いであられた。

 子供のころに、ワケの分からずとも無邪気な漫才に爆笑させられ、大人になって、こういう場面を見せても頂いた。つくづく幸せなことである。

 そういえば、台本研究会の席で台本を読む玲児師。当の担当作家は周囲以上に一番緊張していたはずである。黙読で何度も何度もページをめくり返す玲児師、沈黙…。重苦しい空気が漂うなか、ようやく口にした一言、

「(台本に『と、ここで敏江をドツく』と書かれたト書きを読んで)、ドツくタイミングぐらい、こっちの自由にさせてくれや!」

 ごもっともである(笑)。台本としては、あまりに基本的なツッコミを食らってしまった当人はさらに固まっていたが、彼以外の私めも含めて、めいめい笑いを噛み殺しながら震えていた。新ネタが産まれる現場は、それぐらいに、緊張の雰囲気なのである…(笑)。
 ドラマ「無理な恋愛」(関西テレビ/毎週火曜夜10時00分〜10時54分放送)に、ハマってしまった…。
 稀代のエンターティナー・堺正章氏が主演とはいえ、その設定も元グループサウンズ歌手で離婚歴ありと、マチャアキそのもの。しかも60代の恋愛ドラマときて、年下への恋愛モノでタイトルが…そのまんま!と重なれば、何と安いお膳立てドラマ(関テレ、『あるある〜』のこともあったし 笑)よと穿っていた…私がバカでした!(笑)

 ご当人も歌手、コメディアン、役者と時代時代にステップを踏んで来られて、今や「ミスターかくし芸」…と、何だか納まるところに納まってしまった感を勝手に抱いていた。ところが今回のドラマ。役柄のみならず、そこらあたりの「納まってる感」を、恋に仕事に何とか打破して見せたいという、男の意地がを描いており、またその描き方に団塊の世代、哀愁だけに留まらず、また意地も今さらガムシャラにといった汗臭さがない。もちろん、実際のそれらの哀愁や汗臭さを否定するつもりは毛頭ないが、もしもそれを全面に押し出してマチャアキにやられてしまうと、ドラマとしては「今さら感」が拭えなかったし、また下品にも見えてしまう。笑いにしても泣きどころにしても、どこか一歩引いたような描き方が見ているこちらの現実とも比較出来て、思わず作品に引き込まれてしまう。
 
 主演のマチャアキのみならず、この作品の登場人物すべて、程良く肩の力が抜けたというか、ガムシャラに物語を追うばかりでなく、どこかで隙間というかいわゆる「遊び」がある。物語は、「歳の離れた恋愛」という至ってチマチマしたものの、男女、年代、生活環境それぞれの相違…さらに同世代の友情などなど、周辺の状況もバラつくことなく、一定の空気感で描かれているところも個人的にハマった要因にある。その空気感を引っ張るのが、育ちの良さというか、おしゃれというか、良い歳の重ね方というか、マチャアキ特有の気品によるところ大ではないかと。

 ともあれ、物語は今週で第7話。

 「無理な恋愛」だと承知しながら、それでも思いを抱くヒロイン「長野かえで」(夏川結衣)へ、いよいよマチャアキ演じる主役の「立木正午」、一世一代の(ここらの言いまわしが、私、古臭いネ 笑)告白を果たし、物語、佳境へ繋がるひとつの山場を迎えた。恋愛に関しては「かえで」との一進一退に身を委ねつつ、まずはなすべきことを果たした安堵もあって、一方の仕事は絶好調。まだまだ若手に負けてはならぬとその背中を見せつけながら、快進撃はまだまだ続いて、さて後半戦、どうなる?

 このドラマには主役、ヒロインに次ぐ準主演にチュートリアル徳井義実さんが抜擢されている。小説家志望の青年役で、ここらの設定は、漫才での「妄想ボケ」にあやかってのものか。ともかく、この徳井青年、同じく一流女優を目指すヒロインとはうだつの上がらぬ30代同士、実は男女の仲にあり、主役のマチャアキにとっては、ネックである…しかし青年は、将来の夢と不安に揺れ動く。それを目の当たりにしたマチャアキ、一応の人生の成功は勝ち取ったものの…と今度は自身が揺れ動いてしまう。紛れも無いヒロイン「かえで」を介しては恋敵。一方はそこに夢を描き、一方は人生のラストスパートへの輝きを賭けている。この二人にヒロインを交えた3すくみ、今後の動向に一層気が引かれる。徳井さん、重要な役まわりである。

 その一方で、このドラマ、コンビの相方でもある福田充徳さんも出演。惜しいというか何というか、相方のそれに比べると、はっきり言えばチョイ役である。ヒロイン「かえで」が女優活動の場に留まっている『ワイドショーの再現ドラマ』のディレクター役。現状に屈折しながら将来、「本物のドラマ監督」を目指す役どころは、チョイ役ながらも、ギョーカイ人風な怪しい標準語の駆使っぷりも相俟って、作品のコメディリリーフ、欠かせぬ役どころとして善戦中。ある意味、オイシイ役かもしれない(笑)。それはともかくとして、先週第6話まで皆無であった、ご両人の絡みが、いよいよこの第7話で実現した。
 役の大小、2枚目3枚目のコントラストもあって、今週の見せ場でもあった。

machajun 見せ場といえば、もうひとつ。毎週、このドラマには主役のマチャアキ、行きつけのバーのマスターとして、ムッシュかまやつ氏が友情出演している。かつてのGSバンド「レインドロップス」、互いにメンバー同士で愛称は「チャッピー」「ケンちゃん」「ザ・スパイダース」以来、喜劇・役者の世界に飛び出したマチャアキと、幅広いジャンルながらも音楽一本で歩んでこられたムッシュ氏の、それぞれ半生とも彷彿とさせる。毎回、ムッシュ氏に欠かせないギタープレイもカッコ良い。こんな贅沢な共演も楽しみに見ていたら、この第7話には、なんと、井上順さんがゲストで出演。役どころはGS以来のやはり盟友で、今はラジオディレクター。「チャッピーと久々の仕事、楽しかったよ」とがっちり握手して見せたところは、そのまま「マチャアキ&順」な、ご両人。アドリブなのか、マチャアキのボケに順さん、しっかりコケて見せてくれた(笑)。

 「マチャアキ&順」…2ショットで並んでくれるだけでも嬉しい顔合わせ。かつて頻繁に放送されていた芸能人野球大会…「オールスター夢の球宴」(フジテレビ)では、ピッチャー暴投でマウンド上、乱闘する…と見せかけて何故か社交ダンス(笑)。子供のころの草野球では一度はこのギャグをマネしたものである(こんなんばっかり! 笑)。それよりも、ご両人。同じ「スパイダース」、ツインボーカルに始まって、音楽に留まらず、それぞれ単身で役者の世界に踏み込んでからも黄金コンビ。漫才師やコントチームのように、のべつべったりで見せて聴かせる名コンビもあれば、この「マチャアキ&順」のように、たまに見せる、しかも熟練同士の2ショット。さらに今回のようにマチャアキ主演に華を添える助演という形での何ともいえない友情が、見ているこっちの高揚感を揺さぶってくれる。この逆もしかりで、順さんが司会でった「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)に、マチャアキがゲスト出演したときなども、そう。お徳感倍増である。

 そんな「マチャアキ&順」の2ショットシーンに前後して、チュートリアルの2ショットシーンが挟まっていた。もちろんその軍配いずれということはないものの、新旧名コンビのシーン対決とも見せかけた、何とも粋な演出だ。
 大御所2ショットに負けず劣らず。福田さんも一応レギュラーではあるが、徳井さんにコントラストという、華を添えていた。目指せ、「マチャアキ&順」のチュートリアルも若き名コンビである。今回の、いつかはその逆の場面もまた見てみたいもの。佳境に向うドラマの行方と共に期待がつのる次第である。

 ドラマといえば、マチャアキが歌う、主題歌「忘れもの」…エエ曲ですね。この年末はご当人、「日本レコード大賞」(TBS)の司会に、納まってられないかもしれない。
wyoung 話は続くが先日の、H先生より譲り受けた蔵書のうちの一冊に挟まっていた記事である。初代Wヤングのご両人の若き日の紹介記事。どの新聞社のものか、年月日はもちろん、どこにも記されていないので従って、不詳。しかし、写真にある通り、サックスとギター(現存のはず。確かブリキ製という珍しさもあり大変な高値が付いたと語っておられた)を持っていることから、あのツービートが素直に「敗北した」と認めた華麗なるしゃべくり漫才へと転身する以前も以前。「ちょっと聴いたァ?」「洒落尽くし」も、「坂町ブルース」「スキスキツイスト」も(笑)まだまだこのあと。

 そんななかでいつのころの記事かと推測されるところは、平川幸男師の年齢が23歳、とある。ということは現在の年齢…(こないだの『笑点』では66歳と言っていた)…から差し引くと何と43年前!。「マイ・フェア・レディ」をネタに取り入れていう記事、そういえば、現コンビで最近は「宝塚歌劇」を取り入れたネタを見た。ベテランながら過去の引き出しはもちろん、まだまだ多くの可能性を秘めたコンビだと改めて、この記事を読んでも合致したところである。
 また歴史的記事として、当時の所属が吉本興業ではなく、「日本ドリーム観光」。そして写真の撮影場所は、「日本ドリーム〜」所属の芸人が根城としていた「千日劇場」とある。

 確か当時は、戦後の寄席経営としては最後発にあった吉本直営の、とりわけ「うめだ花月」(1959年3月1日開場)では、出演芸人がまだまだ手薄だったこともあり、この「日本ドリーム〜」と提携し、互いの所属芸人を交換しながら補いながら、両社の演芸場に出演していたそうである。Wヤング師が花月にも出演すれば、吉本当時の金看板であった漫画トリオなどが「千日劇場」にも出演した、という具合に。

 以上をもって貴重な記事であること重々お分かりいただけたと思います。

 以下には、ウィキペディアより引用、「千日劇場」の記載。懐かしい記事と共にしばしタイムトンネル、今から43年前へ、エライすんまへん!

千日劇場(せんにちげきじょう)は、大阪府大阪市南区(現在の中央区)の千日前交差点南西角に位置した、千日デパートの6階にあった劇場。千土地興行(のちの日本ドリーム観光)経営。

1958(昭和33)年11月開場。別称・千日ホール。千日デパートは大阪歌舞伎座を改装した物で、戦前6階に設けられたアイススケート場が戦後進駐軍向けの特殊慰安所(キャバレー)に転じた後、歌舞伎会館という名の劇場に改装され曾我廼家五郎劇(軽演劇)を主に上演し、漫才を併演していた。千日劇場となった後も演芸と五郎劇(「お笑い人生劇団」と改称)を主体とした番組内容であったが、やがて人生劇団は不評のため芸人も出演する「センニチコメディ」に差し替わり、読売テレビと提携した舞台中継や桂米朝司会の「お笑いとんち袋」(出演…笑福亭松之助、桂小春団治=現・露の五郎兵衛、桂文紅、桂我太呂=後・三代目桂文我、桂小米=後・二代目桂枝雀、吾妻ひな子、桂朝丸=現・桂ざこば、関西テレビ/1965年)が放送された。なお、下座(お囃子)は二代目林家染丸夫人で、当時上方演芸界随一の存在であった林家トミが務めていた。

しかしながら、もともと千土地から分かれた形の松竹芸能(劇場…道頓堀角座/1958年開場 ほか)と、演芸を復活させた吉本興業(劇場…うめだ花月 なんば花月/1963年開場 ほか)の両者が追い上げてくると挟み撃ちにあう形となる。千土地自体、代表者が松尾國三に替わって以降は演芸を軽視していた節があり、1963年日本ドリーム観光と改称後はよりその姿勢が鮮明となっていった。1966(昭和41)年京唄子・鳳啓助ら中心芸人が大量離脱し、「娯楽観光」なる芸能プロダクションを設立して独立。その後も芸人の流出が相次ぎ、出演芸人も二流どころが中心となる。「4時間笑って200円」と低料金で頑張った効果も無くジリ貧状態となり、1969(昭和44)年3月一杯で千日劇場は閉鎖されて、日本ドリーム観光は演芸から撤退した。

 跡地はゲームセンターに転用された後、ボウリング場に改装すべく工事に入ったところ1972(昭和47)年5月、千日デパート火災に遭い、一転して建物全体が長期にわたって廃墟のまま晒される事となる。その後漸く取り壊され、現在はビックカメラ大阪なんば店となっている。


 
 朝からバタバタ、頼まれごと。それは、「落語の名場面」を演目ごとにイラストに、しかも春夏秋冬、四季折々2題ずつ計8題、と頼まれた。

 さてと。

 落語は好きでずっと聴いて来ていたものの、さてと、想像の芸とはいえ各場面の印象は漠然でしかない。場面の想像よりもまず演者さんの演じ具合ばかりを追ってきた(というて、決して揚げ足取りが目的はない)風にも思える。要するにライブの雰囲気に浸りたいがための、そういう意味で演目の印象がそっち抜けになっていた印象、否めない。

 とはいえ、頼まれごと。

 もう一度、書物やビデオにテープ、洗いざらいで。8題の選定はもちろん、イラスト化すべき場面の抽出、そのためには時代設定やら考証ごとも改めて検証しなおさなければならない。

 何もかもが初めての手順を踏む厄介な頼まれごとであるが、やりがいのある頼まれごと。〆切はあっても慌てずゆっくり仕上げたいもの。

 書物といえば、先日亡くなられたH先生から譲りうけた蔵書群。そのなかの「らくごまんだら」が、まず役に立ちそうにある。やはり、ただのお形見では終わらなかった。大切に拝読させてもらわねば。
 「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」(ニッポン放送/2008年5月16日放送)
 〜オープニングトーク より〜
 出演・高田文夫、松村邦洋、増田みのり(ニッポン放送) (敬称略)

 高田 5月16日、金曜日でございます…
     ええまぁ、お騒がせしてすみませんでした、ホントに。
     僕も状況知らなくて、昨日の夕方、色んな人の
     問い合わせで知って。
     まぁ、僕の、ヘンな話だけど、おっ師匠さんだね。
     ホントに。一から教わったようなもんだからね。
     舞台の「上手」「下手」から教わったようなもんだからね、この業界の。
     塚田茂先生という人には…。

 松村 センセイの本当に師匠ですもんねぇ。

 高田 10年ぐらい付いてたかなぁ、ずっと。
     先生の一番脂の乗った、50代ぐらいの忙しいときだったからね。
     めっちゃくちゃだったよ、もう。
     オレなんかは、上から5番目ぐらいかな。兄弟子もいっぱい居たからね。
     またオレがさ、目から鼻に抜ける子だから(笑)
     勘がイイからさ、色んなところ連れて行かれてさ。
     一日、10本ぐらい会議があるのョ。テレビ局とか代理店だとか。
     行くと皆、待ってるのよ、塚田先生を。
     で、「付いて来い」って言うから付いて行くだろ。
     そしたら黒板の前でダァ〜ッと喋ってさ。こうやってこうやってって。
     で、一本番組作っちゃうのよ。そしたらまた次の局、次の局…
     ダァ〜ッと喋って。
     オレはメモってるだけなんだよ。
     「で、(メモを元に)明日の朝まで全部台本にしとけ」って。
     その繰り返しで、毎日朝までさ。
 
 松村 へぇ〜!

 増田 鍛えられたんですね、センセイ。

 高田 先生とそっくりな字でさ(笑)
     ほら、字が似てないとさ、昔の台本なんかさ。
     今みたいにメールやなんか無いだろ。

 増田 手書きだ。

 高田 だから字(を似せるの)は上手いよ。
     ホント、似てる字書けたよ、塚田先生と!(笑)

     それ読んだディレクターなんかは、
     「はぁ、塚田先生、最近、ネタが若いね」(笑)

     洒落が若いねなんて言われてさ。

     だから10年以上ね。21〜2歳のときに入って、それからずっと…。

 松村 「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ/1968〜1991年)の歌の順番…
     前の人の歌を歌って…(オープニングメドレー)。

 高田 あの時代はレコード会社が大変で。今はもう他の人の曲を歌うのは
     何ともないことだけど、例えば橋幸夫がさ、舟木一夫の歌を歌うなんて
     大変なことなのよ。ありえないのよ。村田英雄三波春夫を歌うとかさ。
     それをあの先生が考えて、レコード会社に根回しの挨拶に行って、
     「絶対、大丈夫だから」って。だから画期的なのよ!
     アイディアマンなんだよね。色んなこと考えてたんだよね。

 松村 普通に当たり前に見えましたけど、あれは最初、画期的でしたね。

 高田 生んだときはスゴかったと思うよ。
     あと、今は普通に歌手がバラエティに出ることなんか当たり前だけど
     あのころの歌手っていうのは、歌を歌うだけだったでしょ。
     インタビューでも台本の台詞に書いてあることだけ答えてさ。
     にも関わらず、コント演らせたからね。
     『歌謡ドラマ』コーナーってね。で、自分も出てるんだから(笑)

     「塚田茂・どんどんクジラ」ってさぁ…(笑)

     長さん(いかりや長介)なんかとも仲が良くてね。
     ザ・ドリフタ−ズとかクレージーキャッツとかさ。
     日劇のショーは全部演出やってからね。
 
 松村 ほとんど台本書いてましたけど、
     「スターどっきり(秘)報告」(フジテレビ)
     井上(信悟ディレクター)さんなんか言ってましたけどね、
     「あ、この台本、高田だな。オモシレェもん!」ってね。

 高田 色々な(笑)。
     今の若い人は分かンないと思うけど、
     50代以上の人はみんな知ってるかもね。
     若い人なんかは、塚田先生って聴いてもピンと来ないだろうね。
     大分前に一線を退かれたからね。

     (中略)

     クレージーやドリフよりももっと昔で言うと、日劇で、
     「三橋美智也ショー」※を作った人なんだよ。
     
      「日本劇場11月公演・歌う三橋美智也」(1956年)
       歌手のワンマンショーといえば、東海林太郎近江俊郎
       戦後派では唯一、美空ひばりが相場だった時代で、
       さらに後発の三橋美智也及び、
       その世代のワンマンショー起用は
       画期的な出来事であった。


     塚田茂・演出でね。で、そのときの司会が玉置宏さんなんだよ。
     だから三人、仲がイイんだよ。玉置さんも文化放送を辞めて
     一本立ちしたころだから。

 松村 歴史ありますよねぇ。

 高田 その次が「脱線トリオ(由利徹、八波むと志、南利明)」!(笑)
     で、「獅子てんや・瀬戸わんや」※を作って…。

      ※この時代、てんや・わんやの付き人にいた、
       漫才コンビ「内藤ロック・安藤ロール」のロールが、後の
       コント55号・坂上二郎


 松村 「NHK600こちら情報部」(NHK総合/1978〜1984年)※
     なんかもそうですよね。

      ※松村少年を虜にした夕方の子供向け情報番組。
        かなり後年まで続いた長寿番組で、私めも
        子供心ながら、高田先生がレポーター役で
        奔走されていた記憶があります。


 高田 それはもう晩年だな。晩年というか、後の方な。
     回答者の先生だよ。
     その前の作家や演出家の時代がスゴかったんだよ。

 松村 ぼくらの世代はやっぱり、「600」ですね。
     金曜日の『なんでも相談』コーナーの先生ですよ。

 高田 アハハ、そうか、そうか(笑)。
     エンタテイメント界、ショービジネス界の演出としては
     本当に素晴らしい、アイディアマンでね。
     西田佐知子さんの「涙のかわくまで」の作詞※なんかもそうだし。

      ※テレビ草創期の伝説的バラエティ「夢であいましょう」路線を
       狙った次世代番組「夢をあなたに」(NHK/1966年)構成と
       「夢あい」同様に企画された『今月の歌』コーナーの作詞を担当。
       「夢あい」における永六輔・中村八大詞曲カップリングが、
       塚田茂・宮川泰(作曲)コンビに移行。「涙の〜」のほかに、
       「銀色の道」(ダークダックス/ザ・ピーナッツ)
       「信じていたい」(岸洋子/西田佐知子)など。
       「涙の〜」は、大西ユカリと新世界が現在もカバーを手掛ける。
       また、塚田・宮川コンビ、番組以外には、
       「馬鹿は死んでもなおらない」(ハナ肇とクレージーキャッツ)
       など、一連のクレージーソングも手掛けている。


 (中略)

 松村、この一週間の仕事として、
     「地球温暖化防止のため、二酸化炭素を 
     多く輩出する『牛のゲップ』を吸う」
     というロケ企画敢行の話題を受けて…

 高田 バラエティも昔は塚田先生のころなんかは、コント書いてちゃんと

     作ってというのが当たり前だったけど、今は『牛のゲップ』かよ(笑)
     テレビの歴史ももつくづく変わっちゃったよなぁって、
     今になって、しみじみ思うよ!(笑)
     
     テレビの歴史も50年だか55年か。
     だからオレより若いからね、テレビなんか。
     オレよりも、ぽっと出だよ、テレビは(笑)

     色んな作り方があるもんだねぇ…

 増田 今はバラエティというか、クイズが多くなってきましたけれども。

 高田 クイズばっかりだからね。塚田先生が見てたらきっと怒られるだろうな、

     「何やってんだ、今の若いやつは!。ちゃんと作れ!」
     ってね…。


 歌あり笑いあり百花繚乱あり。ありとあらゆる可能性を、今でいうコラボレーションというスパイスを絡めながらてんこもりのおもちゃ箱のように詰めこんだ、まさにバラエティの王道、そのトップバッターでありトップクラスの巨星であられた。その代表作に 「夜のヒットスタジオ」があり『歌謡ドラマ』。そしてそれとと並ぶもうひとつの名物コーナーも。

「えっ?、中村晃子はマエタケ(前田武彦)のことが好きなの?」という塚田氏の個人的なリサーチがまずあった。この時点では番組で企画としてまだコーナー化されていない。さらに「いしだあゆみは、森進一が好みなのか」。この結果もまずあった。あくまでも番組としてのリサーチではなく、いずれも塚田氏個人的なリサーチだという。しかしこれがアイデアとなった。
 当時話題になり始めた「コンピューターによる診断」として、その情報をテレビから送るという企画である。そう、『コンピューター恋人占い』である。

 新企画として生放送、本番に組み込んだ。「虹色の湖」の中村晃子さんはそのターゲットとなり、見事占いの結果が「前田武彦」。当時の司会者でもある。当然当人の目前で動揺の中村晃子さん、やがて号泣の絶唱シーンは、全国の話題をさらった。その2週間後の放送では、同じ『恋人占い』、いしだあゆみさんの巻となり、彼女も意中通り「森進一」と診断されて、やはりスタジオにいた森さん本人の前で号泣の「ブルーライト・ヨコハマ」。またこの日の放送は、放送直前に事故死したカーレーサーの恋人が存在した小川知子さんが、生前の肉声テープを手渡され翻弄。立っているのがやっとの状態で「ゆうべの秘密」を、中村・いしだらに両腕を支えながらの熱唱するなど、大号泣大会が繰り広げられた。「泣きの夜ヒット」を印象付けた名場面は、当時深夜でもあった夜の10時台に視聴率40%以上の記録を弾き出したという。

 「コンピューター」という信憑性の高いシロモノを使って、それでもまだまだアナログだった時代の視聴者を、悪い言葉かもれないが、「あやつった」のである。しかしそれは、トイレにもいなかいとまで幻想された当時のスターの、ほんの素顔を覗かせることでスターとの距離を縮めた「夢への橋渡し」であったと評することが出来る。コンピューターという信憑性はあっても、その正確さはどうでも良かったのである。ただ、橋渡し役として「コンピューター」を取り入れることが、要は「時代を読んだ演出」でもあったのだ。
 芸能人との距離に関しては、言ってみれば今やミソもクソもの時代になってしまった。ただ、当時と違うのは、その距離の縮め方にどれだけ頭を捻ったのか、という点に尽きる。高田先生が代弁された、「ちゃんと作れ!」は、多分、この部分のことであろう。
 けれども今もその辺りは確かに作られているとは思う。が、あまりにもその方法はシステム化された感は否めない。どのトーク番組を見ても、出演者による事前のアンケートをもとに仕立て上げた内容は、アンケートがある分、構成もしやすい。その辺りに作り手の「熱」が伺えるのだ。要は「楽」をしているのではないかと。「虹色の湖」の時代の中村晃子さんのような、要するに演者と作り手の血が通った交流に至っていない分、ナントカDXにしてもナントカ御殿にしても、見ていてどこかうすら寂しさを覚えてしまう。その辺りにも「ちゃんと作れ!」なのだろう。

 作り手と演者の血の通った信頼性が、歌手の「コント進出」であり、やがて開花して「新春かくし芸大会」(フジテレビ/1964年〜)、それに60〜80年代の「NHK紅白歌合戦」、華やかなステージショーである。これらの企画・演出をほぼ一手に引き受けたのが塚田茂氏。とにかく、あのころの歌手は何でもやっていた。コントに限らずどこかのチャンネルで三味線も弾いていたし、フラメンコも踊っていたし、殺陣も演じた、そしてドラマに進出した。結局これが、後々、「毎日が『かくし芸大会』」状態となって、本家凋落を招く事になるのだが、その問題は別にして、その信頼性こどが時代の主役であるアイドル歌手と大御所ベテラン陣、
「ヒデキもヒロミも…」の時代を経て、「トシもマッチもやっとるけれども、わしらもやっとるぞ!」と三波春夫が、村田英雄が、春日八郎が、三橋美智也が、嬉々とした表情で共にサンバを歌い踊り、餅もついて、出初め式の梯子も登ってと渾然一体、圧巻のステージを作り上げたのである。

 昨年の「紅白歌合戦」。原点の歌主体で、しかも個々の自由な雰囲気を尊重させたアーティスト路線の紅白を、笑福亭鶴瓶師の司会ともども堪能させてもらった。その前後に聴かれた、「歌手にコントをやらせてもねぇ…」という鶴瓶師の言葉も印象に残る。確かにそうかもしれないし、現にコントを省くことで、概ね好評という結果ももたらせた。…にしても、歌手とてステージに立つのなら、コントは別としても、洒落でも良いから餅つきでもサンバでも、それはそれで紅白に関しては、見てみたいという思いもある。コブクロ氷川きよしが餅つく後ろで、北島三郎がワッショイワッショイ。そのお餅を、客席に降りて、TOKIOSMAPが会場のお客に振る舞う…年に一度ぐらいはそんなお祭りも…と、やっぱりそんな演出は今の時代にそぐわないのかな。

 著書「どんどんクジラの笑劇人生〜人気番組で綴るテレビバラエティ史」(河出書房新社/1991年3月28日初版発行)を改めて読み返している。
 
 新聞記事によると、平成に入って以降に第一線を退かれた、とある。1991(平成3)年に出版された同書は氏のまさに集大成的一冊である。
 昨夜のバタバタ。朝から一日、落語のプロットを練ったものを何とか仕上げて、当夜は我が師匠、新大阪のお宅で行われる勉強会へ。夜7時前後が集合時間で全員で6名前後が集まるか否かで何となく会はスタートする。
 プロットに関する意見は、何とか台本にしてみても見通しがつきそうな格好でホッと一息。あとはどう具現化していくかは、こちらのか細い、腕の見せ所である。さぁ、やれ、オレ!…人の落語(高座)ばかり誉めてる場合ではない(それにしても、よぉやったぞ!)。

 そんな勉強会のことはまぁこの辺にして、ご自宅に到着したのが6時45分。奈良の家からやっとこ電車を乗り継いで1時間後のことである。いつものように挨拶やら何やらで玄関をあがると、いつもの部屋には大きなダンボール箱が2箱、大層に積まれている。いつものことからすれば異様な光景であ。そんなダンボール箱に、既に到着していた別の仲間らが皆で首を突っ込みながら、ああでもないこうでもあい、あれは何、これがどう。何のことかと一緒になって首を突っ込むと、箱のなかには、それはもう、古くは昭和30年代から近々では60年代に至るまで発行された、演芸に関する書物ばかりである。

 これは、と我が師に伺うと、その師の遥か先輩であられる、演芸の評論からもちろん台本作家まで幅広くこなされたH先生がこの4月にお亡くなりになったというのだ。年に幾度かの集まりでお目にかかっていたが、ここ数年、こちらがその集まりに参加出来ていなかったので、間接的にその訃報に接することとなった。そんなH先生のご遺族による、「我々が蔵書しておくよりも、どなたか必要とされる方々でお分けください」と、我が師がその意を汲み取ったのがこのような形である。

 さてと、その蔵書の数々。なかには古本屋で見つけて、我が家にあるものも数冊ある。にしても、残りのそれの貴重なことと来たら…。私めより若い連中は何が載ってるやらさっぱり分からん雰囲気であるが、何となく、「自分たちと関わりあることやろな」という程度の興味でしかない。言うておくが、関わりも関わり、大有りである。さらに言わせてもらえば、これらの蔵書に描かれている歴史的内容やらエピソードが無ければ、今の演芸界は成り立っていない、といっても過言ではないだろう。直接は言わないまでも、こちらが蔵書をむさぼる雰囲気を見て、おのずとその重要さが伝わったのか、そのあとはもう、むさぼり大会である。

 半ば血みどろの様相を呈して繰り広げられたその大会を征した結果(笑)、手元に得たのは、

「上方笑芸見聞録」長沖一・著(九芸書房/1978年)

「続上方タレント101人」新野新・著(有文社/1978年)

「志ん生一代 上・下」結城昌治・著(朝日文庫/1980年)

「らくごまんだら」相羽秋夫・著(東方出版/1983年)

「続らくごまんだら」相羽秋夫・著(東方出版/1988年)


 の以上…。全部が全部まだ読めていないが、拾い読み、特に「上方笑芸〜」、長沖一先生の筆による、喜劇女優・浪花千栄子さんの葬儀の模様が描かれたくだりは、ベタな表現で申し訳ないが文学的であり、また、かつてのラジオドラマの名作「お父さんはお人好し」(NHK大阪、花菱アチャコ・主演)の出演者と座付き作家という関係もあって、叙情的にも描かれている。ひとつのドラマのワンシーンのごとく。
 新野新先生の「続上方〜」は、1970年代前後の上方演芸界の在り様が生々しく今に伝わる。笑福亭仁鶴師が飛び出し、正司敏江・玲児師のどつき漫才がピークを迎えた時代の、タレント評であり、まだまだ盛んであった演芸場での舞台評。時代の記録である。むさぼり大会で勝ち得た分、むさぼり読むこととしよう。

 その他、当分、読書事欠かない強烈なラインナップ。思わず本棚に並べるも、それだけで壮観である。

 亡くなったH先生とは、結局1、2度をお会いしたことがあるのか。いつもそのときは酒席ということもあり、恰幅も良く揚々とした佇まいであられた。また、我々若い連中の話にも積極的に合わせてくださり、また、「我々の時代もね」と、往時の演芸界にまつわる色んなエピソードや経験談も伺った。
 「我々の時代」…それは、元々関東出身で、作家というよりも学校の国語教師であられた先生が、何とか大阪弁をマスターしたいと、その師事を仰いだのが、あの秋田實氏である。漫才作家の父であると同時に、現役で台本を執筆されていた時代に直接薫陶を受けた、おそらく最後のお一人だったかもしれない。その時代のお一人。世代や遥かの大先人である。

 そういえば、作家各氏のプロフィールを作るとかで、顔写真を載せる代わりに似顔絵を…とそのご使命をいただき、僭越ながら何とか描き上げたことがある。完成品をご覧になって、

「しかし、よく似てるねぇ」とH先生にはお褒めをいただいた。大阪弁をマスターしたいと演芸の世界に身を投じたH先生であるが、最後までべらんめぇな関東弁であった。今となっては貴重な思い出を得たものである。そんな思い出だけならまだしも、今回こうして、先生の蔵書を分けていただくことになった。形見分けである。いや、そういってしまうのはあまりにも心安過ぎる。またそれに甘えることにもなる。なので、これらの蔵書はある意味、時代を越えたバトンであり襷としてお受けするとしよう。というて、今度は自分が後世に何が残せるのか、という自信はないのだが。

 言ってしまえば、これまでずっとヘッポコランナーであった。アスリートには多分なれないかもしれないが、それでもヘッポコはへッポコなりに、ポンコツでも良いので「私はランナーです」とだけは堂々と名乗れるようにならなければという、励みとしてである。

 それを思えば、当夜の、まだまだ欲しかったアノ書物、コノ書物。別に連中に持って行かれた悔しさたるや…(笑)。ちゃんと読んでケツかるかいな。家に帰ってその辺に放ったらかしのままにしてたらそれこそバチがあたるど!。
 今度いっぺん、いただいた蔵書の読書感想文選手権なるものを開催してくれたら、絶対こちとら負けないという、そこら辺りのヘンな自信だけは、ある。
 笑福亭鶴瓶師、昨年の、特に後半以来、「鶴瓶のらくだツアー」(東京・銀座〜歌舞伎座、京都・四条〜南座、大阪・道頓堀〜松竹座 ほか)「第58回NHK紅白歌合戦」(NHK/2007年12月31日放送)司会を挟んで怒涛の映画出演ラッシュと続いた強行スケジュールもあって、なかなかと開催が叶わなかった、「無学」でのお稽古会。それでも何とか開催を、と常に念頭にあったものの、なかなか日の取れない相変わらずのお忙しさにも関わらず、鶴瓶師前説によると、前日火曜日の「ザ・世界仰天ニュース!!」(日本テレビ/毎週水曜夜9時00分〜9時54分放送)収録と、木曜レギュラー出演中の「笑っていいとも!」(フジテレビ/毎週月〜金曜正午〜昼1時00分放送)、その合間で元々お休みだったというこの日、何とか帰阪して開催に至ったという、奇跡のプライベートライブでした。

 というわけで、会場でメモ取るような野暮なことはしていないので(笑)忘れぬうちに当日のプログラムを。感想などなどは、改めて(追記)として…

●「風呂敷」笑福亭恭瓶

●「持参金」笑福亭銀瓶

●「竹の水仙」笑福亭鉄瓶

●「お玉牛」笑福亭達瓶

〜仲入〜

●「いらち俥」笑福亭瓶生

●「私落語・琵琶を弾く観音像」〜「宮戸川」笑福亭鶴瓶
(敬称略)
 
 あくまでも「お稽古会」なのでどなたのどれがどうといちいち細かく記すのもこれは野暮というより失礼かもしれない。これらの演目がこれからじっくり丹念に自身の持ちネタとなって、再び大きな会場で聴ける日までの、お楽しみ…という会なのだ。
 そのなかで当日注目されたのは、笑福亭達瓶さんの「お玉牛」であった。鶴瓶師の前説によると、特にこの達瓶さんの落語に対する姿勢というか、新しいネタをモノにするまでの貪欲さに欠けるといった内容の紹介だったと思う。とにかく新しいネタを仕入れるために、一門に限らずいずれの先輩諸氏に必ず稽古を乞うものなのだが、達瓶さんに関しては、鶴瓶師によると、「馴染みやすそうな先輩ばっかりに頼みやがって!」。師匠として、要はこのあたりに姿勢を問うたのだと思うが、それに発奮したのか、達瓶さん、

「稽古してもらいます!」

「誰に何のネタや?」

「三代目(桂春団治)師匠に『お玉牛』です」

「オイオイ、急に何やそのハードルの上げ方は!?」

…が、今回の「お玉牛」に至ったそうだ。

 そう鶴瓶師より紹介されるやいなや、当然のように客席からどよめきが一挙に沸き上がり、自ずと当日一番の注目をさらうことになった。

 そんなプレッシャーを跳ね除けるかのように、堂々と演じてきっておられた。扇子や手ぬぐいを使った、所作が見所見せどころ。今回はネタおろしという意味でもやや緊張された風にも見えたが、前段で聴かせる、村一番のマドンナであるお玉を我先に物にせんと浮き足立つ若い衆の何ともチャラけた雰囲気が、何となく達瓶さんの口調にも似合っていた。これらも含めてしっかり自分のものに収めたときに、もう一度聴ける日が来ること楽しみなのが、達瓶さんの「お玉牛」かもしれない。

 これとは別に特筆、ようやった!と思わせたのが笑福亭鉄瓶さんの「竹の水仙」。今の滋賀県近江の宿屋町。見てくれからして払える宿賃を持てたりえているのかと疑いたくもなる宿の客。ところがこの客、宿の裏にうっそうと繁る『孟宗竹』を宿の主人に取りに行かせ、その竹で作った「水仙のつぼみ」…つまり竹細工を、水が張られた桶に浮かばせ、もっともらしく「水仙」と見せかけたうえで、「売り物です」と札を掲げておけば、さぁ、その代金で宿賃が払える、という算段があった。宿の主人にしてみれば、そんな小手先で通用するんかいなのその矢先、宿を通りかかったのが大名行列、肥後熊本のお殿様とその一行。駕籠のなかのお殿様、思わず、店先にある「竹の水仙」を気に入ったところ、果たしていかほどのお値段つきますことやら…。
 見所は見てくれ竹細工を施した宿の客(実は、高名な彫刻師、アノ左甚五郎)の、ハッタリが勝つか。それともお殿様の見栄が勝るのか。両者の間で翻弄されるのが、その取り引きを直接行う、宿屋の主人と、お殿様お付きのお侍・大槻玄蕃…。

 演目によってはこれと似たようなお噺、多々あるのですが、なかでもハードルが高いのがおそらくこの「竹の水仙」。というのもほかの噺は、演者自体の間で言うなればゴマカシの効く、終始会話劇であるのに対し、この「竹の水仙」は元々、講談の演目から派生したのだそうで、その分、途中の注釈やら場面転換などの解説、つまり演者によるまさに立て板に水が如しの話芸が要求される。そのうえ、登場人物にお侍とくれば、難解な武家言葉も淀み無く語らなければならない。よほどの名人上手でないと恐らく手掛けることの少ない演目のひとつだといえる。

 そんな「竹の水仙」に挑んだのが若き鉄瓶さん。事前にご当人のブログを拝読すると今回のお稽古会当日は、午前中に京都での生放送があって、それ終わり、間に合わないかもしれませんがとにかく、会場に向います…とあった。実際、当日の前説でも鶴瓶師からは、鉄瓶さんの名前が挙がらなかった。それぞれ出演順まで発表したうえなので、少なくとも開演時間には到着していなかったのだろう。