日日の自惚れ

10月13日をもって更新・公開終了。
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 〜横山ノック(本名・山田勇)波瀾万丈75年史〜

1932(昭和7)年 神戸にて、父・八十一、母・キヌの次男として誕生。

1944(昭和19)年 12歳。菊水小学校卒業後、楠高等小学校入学。

1945(昭和20)年 13歳。
       3月17日神戸大空襲被害〜8月15日、終戦

1946(昭和21)年 14歳。楠高等小学校卒業後、
       素人劇団「電波は叫ぶ」入団。
      『あのね、おっさん、わしゃかなわんよ!』で名を馳せた
      当時のコメディアン、高勢実乗(たかせ・みのる)の
      物真似を得意芸とし、喝采を浴びる。

       規定の18歳未満にも関わらず、年齢をごまかして
      貨物船の荷降ろしを皮切りに進駐軍に従事し始める。

       以後、ポパイの物真似などで米兵の笑いを買い、
       チューインガムやコーラに初めて触れ、
      米国文化に触発される。

1949(昭和24)年
       17歳、夏。進駐軍のマリアン少尉に貞操を奪われる。

1956(昭和31)年
       24歳。当時の人気漫才コンビ「秋田Aスケ・Bスケ」
       秋田Bスケ師に入門。
       Aスケ・Bスケ
       ミヤコ蝶々・南都雄二
       夢路いとし・喜味こいしらが所属した
       秋田實主宰の「宝塚新芸座」に入座。
       「三田久(みた・ひさし)の芸名で初舞台。

1957年(昭和32)
       25歳。「〜新芸座」スター座員や
       秋田實とともに大量移籍。
       それに伴い、窮地となった若手座員の「三田久」は、
       同じBスケ門の兄弟子と、
       漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ(ノック)結成。
       京都新京極〜富貴座で初高座を果たす。

       このころより、毛髪、貧窮の事態に。
       それを見かねた先輩芸人の
       「頭皮に刺激を与えるんや」
       という助言を元に、
       公園に落ちてる松葉を拾い、刺激を。
       …頭皮は血まみれとなる。

       また、芸人仲間の内輪で美人と評判だった
       女流漫才師「園蝶世」と恋仲に落ちる。

1958(昭和33)年
        26歳。前年に知り合った
        大丸百貨店の女性店員と結婚。
    
1959(昭和34)年
        27歳。新芸座から既に松竹芸能
        移籍を果たし、「暴力漫才」として台頭しつつあった
        Oスケ・Kスケに東宝系の「大宝芸能」より
        移籍話が持ち上がる。
         しかし、Kスケと裏腹に相方のOスケが
        松竹残留を表明。
        ついにコンビ解散となる。
        松竹残留のOスケは「三代目平和日佐丸」となり、
        ベテラン漫才師・平和ラッパ
        相方として迎えられる。
         OスケKスケ時代より定評のあった
        日佐丸のツッコミとラッパの破壊的なボケで
        人気漫才コンビに。

         また、大宝移籍も「秋田Kスケ」で活躍の
        ノック師に松竹側から「秋田」の屋号返還を
        要求される。
        師匠のBスケ師も「会社の要求では」と
        困惑しながら心機一転も兼ねて、
        屋号返還をアドバイス。
        芸名をKスケより再度「三田久」に改名。

         東宝系の「北野劇場」
        コメディアンとして出演。
         当時の支配人が、後に開局する
        関西テレビに出向することとなり、
        ノック師もそのお供として出入り。
        当時、関西テレビにいたディレクターが、
         「漫才からコメディアンで困ってるなら、
          ウチの親父を紹介したるわ」。
        紆余曲折の末、「エンタツ・アチャコ」の
        横山エンタツ師に入門。
        芸名も改め、
        ここに「横山ノック」が誕生する。
        「ノック」とは「Oスケ・Kスケ」のOKを逆にした
        「KO」(ノックアウト)より由来。

        3月1日
        吉本興業「うめだ花月」開場。
        エンタツ門移籍と共に、大宝芸能より吉本へ移籍。
        吉本ヴァラエティ(現在の吉本新喜劇)に
        出演しながら新しい相方を見つけ
        「横山ノック・アウト」結成。
        暴力漫才で出発するも、1年余りで頓挫、解散へ。

       長女、誕生。

1960(昭和35)年
        28歳。
        知己の演芸誌編集者より
        京都のクラブ「ベラミ」にて
        若手ロカビリー司会者を紹介される。
        その司会者こそ、後の横山パンチ
        こと上岡龍太郎

         既成概念を打ち破る「しゃべくり三人漫才」の
        構想案が芽生え、上岡の紹介で、
        ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」
        ドラマー「轟盛次(とどろき・せいじ)と出会う。
        盛次は当時の人気漫才師・轟一蝶
        長男でもあり、そのDNAを見込んで、
        「横山フック」と名乗らせ
        ついに伝説のトリオ漫才「漫画トリオ」が結成される。
        マネジャーには、知己の編集者・鳥居重夫
        初高座は同年11月「うめだ花月」。

        出囃子には、三味音曲を避け、
        「クワイ河マーチ」を使用。
        進駐軍で馴らした行進スタイルで舞台に登場。
        衣裳も石津謙介がブレイクする以前からの
        「VANジャケット」に身を包み、また、
        東京漫才のコロムビアトップ・ライト
        人気を受けて、「時事漫才」を…など、
        演芸界では前代未聞のノック流演出を続々展開。
        「時事漫才」は後に『今週のハイライト』となり
        一斉を風靡。
        スター漫才師の仲間入りを果たす。

1962(昭和37)年
        30歳。劇場出演は従来通り吉本専属で、
        同時に余興用のプロダクションとして鳥居マネと
        「協愛プロダクション」を設立。
        東京・新宿「松竹文化寄席」出演を
        キッカケに全国区人気に。
        このころに立川談志(当時・柳家小ゑん)師と出会う。

        天才少年漫才師として人気を博していた
        「堺伸スケ・正スケ」コンビ解散。
        18歳の堺伸スケ
        ノック門下に入門、
        「横山やすし」と名付けられる。
 
1963(昭和38)年
        31歳。スター漫才師の仲間入りを果たすも、
        いまいち、フックの話芸が芳しくないと判断した
        ノック・パンチは、隠密のうちに
        「フック切り」を画策。
        と同時に「二代目フック」探しに奔走。
        当時、白木みのる師の
        付き人であった「小島あきら」
        その二代目フックと定め、メンバーチェンジ着手。        
        「第2期漫画トリオ」として
        大映映画「雑兵物語」(勝新太郎・主演)に出演。
        この間「第1期」「第2期」の交替時期を見計らいながら
        1ヶ月後に「フック切り」を正式勧告。
        波瀾の後、第2期「漫画トリオ」スタート。
   
        東京の檜舞台「東宝名人会」に進出。
        五代目古今亭志ん生八代目桂文楽など、
        昭和の名人たちとも競演。さらに人気も加速する。

        長女、腸重積で亡くなる。後に一男一女をもうける。

1964(昭和39)年
        32歳。
        弟子第2号として、「横山プリン」入門。
        やすし、プリンで「横山やすし・たかし(プリン)」結成。
        しかし、頓挫。
        次いで、後の「レツゴー正児」
        第2期「横山やすし・たかし(正児)」結成するも
        やはり一年足らずで頓挫。再びプリンと
        第3期「横山やすし・たかし(プリン)」を組むも
        コンビ別れ。
        やすし、1966(昭和41)年
        「西川きよし」とコンビ結成。
        ちなみに、「やすし」「たかし」の芸名は、
        「漫画トリオ ノック・フック・パンチ」以前に
        候補にあった、トリオ名とそれぞれの芸名、
        「北浜トリオ(当時、証券が浸透しはじめた)
         やすし(安し)・たかし(高し)・かわらじ(変わらじ)」
        に由来する。

1965(昭和40)年 
        33歳。
        トレードマークのピンカールヘアも、
        毛髪衰退が加速。
        しかし工夫を凝らし何とか維持するも、
        巷にカツラ疑惑が浸透。それを払拭すべく、
        当時の人気番組「スター千一夜」(フジテレビ)にて
        全国に『ピンカールの作り方』を実践披露。

        しかし、程なくカツラを使用し始める。

        ある演芸番組で出演。舞台でパンチに
        「ええ加減にしなさい!」と
        頭を叩かれたのと同時に
        ピンカールのヅラ、客席へ飛ぶ。
        「ウミガメが飛んできた!」など客席から悲鳴が起こる。

1966(昭和41)年
        34歳。
        8月「うめだ花月」出演中に、
        母、キヌ亡くなる。

        劇場出演契約の吉本興業の仕事数より
        余興ほか専門の協愛プロのそれが上回る。
        これを期に仕事比を徐々に協愛依りに
        傾けながら、ついには
        吉本より独立を果たす。

1968(昭和43)年
        36歳。
        吉本を円満に独立し順風満帆の
         『今週のハイライト』、時事漫才。
        しかし、ここにネタとなるべき
        社会の歪に疑問が生じ、
        ついに3月
        参議院議員選挙「全国区」で出馬を決意。
        同時期に東京では青島幸男
        石原慎太郎の各氏が立候補。
        そのため、漫画トリオは事実上の解散へ。
      
        パンチは笑芸作家の香川登志緒(後、登枝緒)氏の
        勧めで「伊井パンチ」を。
        フックも同じく「青芝フック」と改名し、
        高校の後輩と新コンビ「青芝フック・キック」を結成。

        しかし、パンチ自身は母方の苗字を冠した
        「上岡龍太郎」
        としての活躍を希望しており、
        「伊井パンチ」の芸名は便宜上、
        香川氏の仕事に限って使用した。
        ほどなく、「上岡龍太郎」と芸名を統一。
        笑福亭仁鶴桂三枝
        浜村淳ら深夜ラジオ番組発の
        ディスクジョッキーブームに乗って
        ラジオパーソナリティとして地位を築き始める。

        7月、参院選「全国区」、
        青島、石原両候補と共に当選。
        無所属での当選に思わず叫んだ
        『組織に勝った!』…が流行語に。

        7月31日初登院。
        後に政界の師となる、市川房枝議員の
        勧誘で「二院クラブ」に所属する。

        9月30日「お昼のワイドショー」放送開始。
        東京発(日本テレビ・制作)司会に青島幸男氏、
        月・水・金曜司会担当。
        翌10月1日よりノック氏、
        大阪発(読売テレビ・制作)司会者として
        火・木曜を担当。

        国会、登院後初の予算委員会で時の総理、
        佐藤栄作氏に
        「栄ちゃん」と発言。
        当時、国民的総理を目指した
        佐藤氏自身が「栄ちゃんと呼ばれたい」という発言に
        対する質問も、ノック氏の「栄ちゃん…と呼ばれたい〜」
        とこのあとに続くはずが、
        「栄ちゃん」の時点で委員長が総理を指名。
        国会法により、仕方なく壇上に
        上った佐藤総理、
        「時と場所を考えてください」…
        これが発端となり、マスコミなどでも騒動に。
        しかし、お互いに誤解だと分かりお咎めなし。
        佐藤氏には終生、本名の「山田君」ではなく
        芸名の「横山君」
        と呼びかけられるなど、
        終生友好な関係を保ち続けた。

1971(昭和46)年
        39歳。運輸委員会委員に。
        国会では芸人時代を生かした
        話術で和やかな質疑応答を展開。
        タレント議員の面目躍如を果たす。

        しかし、一方で二足のワラジで続けた
        芸人としての輝きが次第と失せていくことが
        気がかりとなる。
        かつての相方である上岡、青芝は
        タレント、漫才師とそれぞれの分野で
        人気者に。ノックはその後塵を拝するかの
        心境に陥る。

1974(昭和49)年
        42歳。二期目の参院選出馬も、落選
        タレント活動に専念することとなるも、
        かつてのそれぞれ相棒は、人気芸人に。
        そんななかで、ピン芸人として比較的
        フットワークの軽かった
        上岡氏が相談に乗ることとなり
        「新・漫画トリオ」構想が持ち上がる。
        青芝となった横山フックの枠を、
        当時「横中バック・ケース」
        解散させた横中バック
        「三代目フック」襲名を要請。
        しかし、復活機会を伺いながらも頓挫。
        例の『パンパカパ〜ン』が低音でだみ声の
        バックには馴染まなかったためである。
        ちなみにバックは、翌1975年
        「B&B」として活躍しながらも
        惜しくも解散間もない上方真一
        「西川のりお・上方よしお」結成。
        バックとは、現在の西川のりお師である。
 
        「米朝ファミリー和朗亭」(朝日放送)出演。
        上岡、青芝とともに9年ぶり、
        一日限りのトリオ再結成。

1975(昭和50)年
        43歳。上岡氏とのコンビでの仕事が増える。
        「歌って笑ってドンドコドン」※初期レギュラー
        (ラジオ大阪/1974年10月5日〜1999年3月27日放送)
        「ノックは無用!」
        (関西テレビ/1975年1月18日〜1997年9月27日放送)
        「ラブアタック!」※初期は『ラブアタック!7人のサムライ』
        (朝日放送/1975年11月2日〜1984年10月14日)など。

        また、「政治漫談」の看板で
        吉本興業系の舞台にもたびたび出演。

1977(昭和52)年
        45歳。参院選再出馬。
        専念したタレント活動に加え、
        選挙戦としては
        前代未聞の「自転車選挙」活動を。
        これgが功を奏し当選。以後、
        ノック氏お馴染みの選挙スタイルとなり、
        参議院議員、合計4期24年を務めることに。

1978(昭和53)年
        46歳。
        10月1日『花の新婚!カンピューター作戦』
        (関西テレビ/〜1991年3月31日放送)開始。
        共演…桂文珍藤本統紀子ほか、
        司会…上岡龍太郎

1980(昭和55)年
        48歳。
        4月5日『ノンストップゲーム』
        (関西テレビ/〜1989年3月25日放送)開始。
        共演…板東英二、桂文珍→
        上沼恵美子月亭八方
        「自分で企画しはったのに、ゲームのルール、
        最後まで把握しはらんと番組終わってしもた(笑)」
        (上沼恵美子・談〜『こころ晴天』ABCラジオ

        議員活動と同時に、タレントとしても頭髪同様、
        最高の輝きを放ち、独特の地位を築き上げる。

1995(平成7)年
        63歳。
        1月17日、未曾有の阪神淡路大震災、発生。
        前後して、
        大阪府知事の後援会献金疑惑事件が起こり
        政治家ノック氏の憤懣が募る。
        震災で焼け野原となった故郷、神戸に、
        50年前、終戦時の「丸裸」時代を重ね合わせ、
        裸一貫で参院辞職、
        同年、大阪府知事選に出馬決意。
        7月、当選。
        裏金壊滅、APEC開催など、府政に尽力。

1996(平成8)年
        64歳。
        1月21日横山やすし死去(享年51)
        葬儀にて弔辞、『日本一のやすきよ漫才は
        師匠の漫画トリオをとっくに越えていたよ』

        11月、「大阪府立演芸資料館ワッハ上方」開館

1999(平成11)年
        67歳。二期目の府知事選出馬。
        史上最高の235万票獲得で当選。

        しかし、、選挙活動中に陣営運動員の女子大生に
        「強制わいせつ」の民事訴訟を起こされる。
        同12月21日、在宅起訴され、
        翌2000(平成12)年1月
        大阪府知事辞任。
        8月判決確定。
        その後、すべての活動を自粛。

2000(平成12)年
        68歳。
        4月30日、上岡氏が芸能界引退。

2003(平成16)年
        71歳。執行猶予満了を持って、
        「とっぴもナイト」(KBS京都/出演・池田幾三、
        河内家菊水丸)にて
        テレビ復帰が持ちあがるも
        時期尚早との槍玉に遭い、計画は頓挫する。

2004(平成17)年
        72歳。
        2月13日、師匠であった
        「秋田Aスケ・Bスケ独演会」(ワッハ上方)
        にて舞台復帰。

        9月1日「第21回新世紀落語の会」(梅田・HEPホール)出演。
        出演…四代目林家染語楼桂雀々
         月亭遊方笑福亭たま

        10月14日
         「中島らも追悼 うたっておどってさわいでおくれ
    
         〜RAMO REAL PARTY〜」(なんばHATCH)出演。

        11月29日
         「なにをいまさら横山ノック〜ノックとゆかいな仲間たち〜」

         (ワッハ上方)で本格復帰宣言。
         青芝フック、横山プリンと「新・漫画トリオ」を披露。
         引退後の上岡龍太郎氏も客席より飛び入り出演。

2006(平成18)年 
        74歳。
        2月18日「ぜんタネ」(スカイパーフェクTV!/
         司会…ぜんじろう、種浦マサオ)にて、
        7年ぶりのテレビ復帰。

        7月24日「ラジ関アフタヌーン立原啓裕です」
        『おもしろ神戸学』(ラジオ関西)にて、
        7年ぶり、地上波ラジオ番組に復帰。

        9月3日「上方はなし彦八まつり」
        奉納落語会出演。
         共演…桂三枝
          桂きん枝里見まさと ほか

manga20072007(平成19)年
        5月3日咽頭がんのため死去(享年75)。
        5月4日、通夜。翌5日、葬儀。

        6月7日大阪・リーガロイヤルホテルにて
        「お別れ会」開催予定。

※参考文献「知事の履歴書―横山ノック一代記―」横山ノック・著(1太田出版/1995年初版)ほか、より。
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